- ◆学会員さん『ニセ本尊』で検索しよう◆ [転載禁止]©2ch.net
389 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/28(土) 11:30:11.63 ID:O5HCgq1E - 創価が謗法厳戒の精神を失ったのは日蓮正宗も同じだった!
日蓮正宗信徒の代表である大石寺の檀家総代が、神社の氏子総代を兼務。その大謗法を法主・管 長が平然と放置していた。宗開両祖の精神など微塵もない日蓮正宗の実態を示して余りある、落ちぶれた現実である。 ―「神札」購入まで奨励― 衝撃の事実が発覚したのは2013年(平成25年)年頭のことだった。大石寺の檀家総代である井出氏が、富士宮市内 の曽我神社の氏子総代を兼務していたことが明らかになった。井出氏は、同神社の祭事を主導。神体が祀られている 同神社の例大祭にも参列し、宮司の真後ろの最前列に座って、一緒になって神体を拝んでいた写真を白日の下にされ された。さらには、神社に寄付を行った上、自らの名前で、地域住民に曽我神社の「神札」購入を奨励する文書まで 配布していたことも発覚した。井出氏は宗内にわずか3人しかいない大石寺の総代。その中でも井出家は、代々、総 代を務めてきた家柄である。大石寺百貫坊の総代等を経て、05年(同17年)6月から大石寺総代を務め、13年(同25 年)7月には、再任された。まさに信徒の模範たるべき人物である。一方、曽我神社は神社本庁に属し、伊勢神宮を 本宗と仰ぐ、れっきとした神社である。この事態には、御用機関誌「慧妙」も反論に窮し、10カ月後にようやく「総 本山として『謗法を放置』したり『黙認』していたわけではない」、また「所属寺院の指導教師住職」や「周辺の方 達」が「厳重注意をされた」(13年11月1日付)などと力なく弁解するしかなかった。 しかし、厳重注意されたはず の井出氏は、その直後の11月3日、またまた「神札」購入の奨励文書を地域に配布。そのうえで、何事もなかったか のように御影堂の法要に出席、11月14日の本堂遷座の際には、法主・日如らを先導して、大石寺境内を練り歩いてい たのである。いかに詭弁を弄したとしても、もはや「謗法厳戒」の精神など日蓮正宗には存在しないことを如実に物語 る一コマだった。
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- 靖国神社のみたま祭りに、創価学会が提灯を奉納?
5 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/28(土) 11:30:27.64 ID:O5HCgq1E - 創価が謗法厳戒の精神を失ったのは日蓮正宗も同じだった!
日蓮正宗信徒の代表である大石寺の檀家総代が、神社の氏子総代を兼務。その大謗法を法主・管 長が平然と放置していた。宗開両祖の精神など微塵もない日蓮正宗の実態を示して余りある、落ちぶれた現実である。 ―「神札」購入まで奨励― 衝撃の事実が発覚したのは2013年(平成25年)年頭のことだった。大石寺の檀家総代である井出氏が、富士宮市内 の曽我神社の氏子総代を兼務していたことが明らかになった。井出氏は、同神社の祭事を主導。神体が祀られている 同神社の例大祭にも参列し、宮司の真後ろの最前列に座って、一緒になって神体を拝んでいた写真を白日の下にされ された。さらには、神社に寄付を行った上、自らの名前で、地域住民に曽我神社の「神札」購入を奨励する文書まで 配布していたことも発覚した。井出氏は宗内にわずか3人しかいない大石寺の総代。その中でも井出家は、代々、総 代を務めてきた家柄である。大石寺百貫坊の総代等を経て、05年(同17年)6月から大石寺総代を務め、13年(同25 年)7月には、再任された。まさに信徒の模範たるべき人物である。一方、曽我神社は神社本庁に属し、伊勢神宮を 本宗と仰ぐ、れっきとした神社である。この事態には、御用機関誌「慧妙」も反論に窮し、10カ月後にようやく「総 本山として『謗法を放置』したり『黙認』していたわけではない」、また「所属寺院の指導教師住職」や「周辺の方 達」が「厳重注意をされた」(13年11月1日付)などと力なく弁解するしかなかった。 しかし、厳重注意されたはず の井出氏は、その直後の11月3日、またまた「神札」購入の奨励文書を地域に配布。そのうえで、何事もなかったか のように御影堂の法要に出席、11月14日の本堂遷座の際には、法主・日如らを先導して、大石寺境内を練り歩いてい たのである。いかに詭弁を弄したとしても、もはや「謗法厳戒」の精神など日蓮正宗には存在しないことを如実に物語 る一コマだった。
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- 歴代法主が記録した大御本尊の寸法がバラバラな件 [無断転載禁止]©2ch.net
802 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/28(土) 11:31:24.07 ID:O5HCgq1E - 創価が謗法厳戒の精神を失ったのは日蓮正宗も同じだった!
日蓮正宗信徒の代表である大石寺の檀家総代が、神社の氏子総代を兼務。その大謗法を法主・管 長が平然と放置していた。宗開両祖の精神など微塵もない日蓮正宗の実態を示して余りある、落ちぶれた現実である。 ―「神札」購入まで奨励― 衝撃の事実が発覚したのは2013年(平成25年)年頭のことだった。大石寺の檀家総代である井出氏が、富士宮市内 の曽我神社の氏子総代を兼務していたことが明らかになった。井出氏は、同神社の祭事を主導。神体が祀られている 同神社の例大祭にも参列し、宮司の真後ろの最前列に座って、一緒になって神体を拝んでいた写真を白日の下にされ された。さらには、神社に寄付を行った上、自らの名前で、地域住民に曽我神社の「神札」購入を奨励する文書まで 配布していたことも発覚した。井出氏は宗内にわずか3人しかいない大石寺の総代。その中でも井出家は、代々、総 代を務めてきた家柄である。大石寺百貫坊の総代等を経て、05年(同17年)6月から大石寺総代を務め、13年(同25 年)7月には、再任された。まさに信徒の模範たるべき人物である。一方、曽我神社は神社本庁に属し、伊勢神宮を 本宗と仰ぐ、れっきとした神社である。この事態には、御用機関誌「慧妙」も反論に窮し、10カ月後にようやく「総 本山として『謗法を放置』したり『黙認』していたわけではない」、また「所属寺院の指導教師住職」や「周辺の方 達」が「厳重注意をされた」(13年11月1日付)などと力なく弁解するしかなかった。 しかし、厳重注意されたはず の井出氏は、その直後の11月3日、またまた「神札」購入の奨励文書を地域に配布。そのうえで、何事もなかったか のように御影堂の法要に出席、11月14日の本堂遷座の際には、法主・日如らを先導して、大石寺境内を練り歩いてい たのである。いかに詭弁を弄したとしても、もはや「謗法厳戒」の精神など日蓮正宗には存在しないことを如実に物語 る一コマだった。
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- 大石寺教義と板本尊真偽論の考察3 [無断転載禁止]©2ch.net
709 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/28(土) 11:31:44.37 ID:O5HCgq1E - 創価が謗法厳戒の精神を失ったのは日蓮正宗も同じだった!
日蓮正宗信徒の代表である大石寺の檀家総代が、神社の氏子総代を兼務。その大謗法を法主・管 長が平然と放置していた。宗開両祖の精神など微塵もない日蓮正宗の実態を示して余りある、落ちぶれた現実である。 ―「神札」購入まで奨励― 衝撃の事実が発覚したのは2013年(平成25年)年頭のことだった。大石寺の檀家総代である井出氏が、富士宮市内 の曽我神社の氏子総代を兼務していたことが明らかになった。井出氏は、同神社の祭事を主導。神体が祀られている 同神社の例大祭にも参列し、宮司の真後ろの最前列に座って、一緒になって神体を拝んでいた写真を白日の下にされ された。さらには、神社に寄付を行った上、自らの名前で、地域住民に曽我神社の「神札」購入を奨励する文書まで 配布していたことも発覚した。井出氏は宗内にわずか3人しかいない大石寺の総代。その中でも井出家は、代々、総 代を務めてきた家柄である。大石寺百貫坊の総代等を経て、05年(同17年)6月から大石寺総代を務め、13年(同25 年)7月には、再任された。まさに信徒の模範たるべき人物である。一方、曽我神社は神社本庁に属し、伊勢神宮を 本宗と仰ぐ、れっきとした神社である。この事態には、御用機関誌「慧妙」も反論に窮し、10カ月後にようやく「総 本山として『謗法を放置』したり『黙認』していたわけではない」、また「所属寺院の指導教師住職」や「周辺の方 達」が「厳重注意をされた」(13年11月1日付)などと力なく弁解するしかなかった。 しかし、厳重注意されたはず の井出氏は、その直後の11月3日、またまた「神札」購入の奨励文書を地域に配布。そのうえで、何事もなかったか のように御影堂の法要に出席、11月14日の本堂遷座の際には、法主・日如らを先導して、大石寺境内を練り歩いてい たのである。いかに詭弁を弄したとしても、もはや「謗法厳戒」の精神など日蓮正宗には存在しないことを如実に物語 る一コマだった。
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- 帰ってきた築山 [無断転載禁止]©2ch.net
447 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/28(土) 11:35:55.68 ID:O5HCgq1E - 創価が謗法厳戒の精神を失ったのは日蓮正宗も同じだった!
日蓮正宗信徒の代表である大石寺の檀家総代が、神社の氏子総代を兼務。その大謗法を法主・管 長が平然と放置していた。宗開両祖の精神など微塵もない日蓮正宗の実態を示して余りある、落ちぶれた現実である。 ―「神札」購入まで奨励― 衝撃の事実が発覚したのは2013年(平成25年)年頭のことだった。大石寺の檀家総代である井出氏が、富士宮市内 の曽我神社の氏子総代を兼務していたことが明らかになった。井出氏は、同神社の祭事を主導。神体が祀られている 同神社の例大祭にも参列し、宮司の真後ろの最前列に座って、一緒になって神体を拝んでいた写真を白日の下にされ された。さらには、神社に寄付を行った上、自らの名前で、地域住民に曽我神社の「神札」購入を奨励する文書まで 配布していたことも発覚した。井出氏は宗内にわずか3人しかいない大石寺の総代。その中でも井出家は、代々、総 代を務めてきた家柄である。大石寺百貫坊の総代等を経て、05年(同17年)6月から大石寺総代を務め、13年(同25 年)7月には、再任された。まさに信徒の模範たるべき人物である。一方、曽我神社は神社本庁に属し、伊勢神宮を 本宗と仰ぐ、れっきとした神社である。この事態には、御用機関誌「慧妙」も反論に窮し、10カ月後にようやく「総 本山として『謗法を放置』したり『黙認』していたわけではない」、また「所属寺院の指導教師住職」や「周辺の方 達」が「厳重注意をされた」(13年11月1日付)などと力なく弁解するしかなかった。 しかし、厳重注意されたはず の井出氏は、その直後の11月3日、またまた「神札」購入の奨励文書を地域に配布。そのうえで、何事もなかったか のように御影堂の法要に出席、11月14日の本堂遷座の際には、法主・日如らを先導して、大石寺境内を練り歩いてい たのである。いかに詭弁を弄したとしても、もはや「謗法厳戒」の精神など日蓮正宗には存在しないことを如実に物語 る一コマだった。
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- 日蓮って ver.44
484 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/28(土) 11:36:23.90 ID:O5HCgq1E - 創価が謗法厳戒の精神を失ったのは日蓮正宗も同じだった!
日蓮正宗信徒の代表である大石寺の檀家総代が、神社の氏子総代を兼務。その大謗法を法主・管 長が平然と放置していた。宗開両祖の精神など微塵もない日蓮正宗の実態を示して余りある、落ちぶれた現実である。 ―「神札」購入まで奨励― 衝撃の事実が発覚したのは2013年(平成25年)年頭のことだった。大石寺の檀家総代である井出氏が、富士宮市内 の曽我神社の氏子総代を兼務していたことが明らかになった。井出氏は、同神社の祭事を主導。神体が祀られている 同神社の例大祭にも参列し、宮司の真後ろの最前列に座って、一緒になって神体を拝んでいた写真を白日の下にされ された。さらには、神社に寄付を行った上、自らの名前で、地域住民に曽我神社の「神札」購入を奨励する文書まで 配布していたことも発覚した。井出氏は宗内にわずか3人しかいない大石寺の総代。その中でも井出家は、代々、総 代を務めてきた家柄である。大石寺百貫坊の総代等を経て、05年(同17年)6月から大石寺総代を務め、13年(同25 年)7月には、再任された。まさに信徒の模範たるべき人物である。一方、曽我神社は神社本庁に属し、伊勢神宮を 本宗と仰ぐ、れっきとした神社である。この事態には、御用機関誌「慧妙」も反論に窮し、10カ月後にようやく「総 本山として『謗法を放置』したり『黙認』していたわけではない」、また「所属寺院の指導教師住職」や「周辺の方 達」が「厳重注意をされた」(13年11月1日付)などと力なく弁解するしかなかった。 しかし、厳重注意されたはず の井出氏は、その直後の11月3日、またまた「神札」購入の奨励文書を地域に配布。そのうえで、何事もなかったか のように御影堂の法要に出席、11月14日の本堂遷座の際には、法主・日如らを先導して、大石寺境内を練り歩いてい たのである。いかに詭弁を弄したとしても、もはや「謗法厳戒」の精神など日蓮正宗には存在しないことを如実に物語 る一コマだった。
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- 【覚醒】2世3世が学会のおかしさに気がついたこと77
756 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/28(土) 12:20:02.05 ID:O5HCgq1E - 創価が謗法厳戒の精神を失ったのは日蓮正宗も同じだった!
日蓮正宗信徒の代表である大石寺の檀家総代が、神社の氏子総代を兼務。その大謗法を法主・管 長が平然と放置していた。宗開両祖の精神など微塵もない日蓮正宗の実態を示して余りある、落ちぶれた現実である。 ―「神札」購入まで奨励― 衝撃の事実が発覚したのは2013年(平成25年)年頭のことだった。大石寺の檀家総代である井出氏が、富士宮市内 の曽我神社の氏子総代を兼務していたことが明らかになった。井出氏は、同神社の祭事を主導。神体が祀られている 同神社の例大祭にも参列し、宮司の真後ろの最前列に座って、一緒になって神体を拝んでいた写真を白日の下にされ された。さらには、神社に寄付を行った上、自らの名前で、地域住民に曽我神社の「神札」購入を奨励する文書まで 配布していたことも発覚した。井出氏は宗内にわずか3人しかいない大石寺の総代。その中でも井出家は、代々、総 代を務めてきた家柄である。大石寺百貫坊の総代等を経て、05年(同17年)6月から大石寺総代を務め、13年(同25 年)7月には、再任された。まさに信徒の模範たるべき人物である。一方、曽我神社は神社本庁に属し、伊勢神宮を 本宗と仰ぐ、れっきとした神社である。この事態には、御用機関誌「慧妙」も反論に窮し、10カ月後にようやく「総 本山として『謗法を放置』したり『黙認』していたわけではない」、また「所属寺院の指導教師住職」や「周辺の方 達」が「厳重注意をされた」(13年11月1日付)などと力なく弁解するしかなかった。 しかし、厳重注意されたはず の井出氏は、その直後の11月3日、またまた「神札」購入の奨励文書を地域に配布。そのうえで、何事もなかったか のように御影堂の法要に出席、11月14日の本堂遷座の際には、法主・日如らを先導して、大石寺境内を練り歩いてい たのである。いかに詭弁を弄したとしても、もはや「謗法厳戒」の精神など日蓮正宗には存在しないことを如実に物語 る一コマだった。
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- ニセ本尊拝んでると人生上手くいかないだろ? [転載禁止]©2ch.net
502 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/28(土) 12:27:43.14 ID:O5HCgq1E - 創価が謗法厳戒の精神を失ったのは日蓮正宗も同じだった!
日蓮正宗信徒の代表である大石寺の檀家総代が、神社の氏子総代を兼務。その大謗法を法主・管 長が平然と放置していた。宗開両祖の精神など微塵もない日蓮正宗の実態を示して余りある、落ちぶれた現実である。 ―「神札」購入まで奨励― 衝撃の事実が発覚したのは2013年(平成25年)年頭のことだった。大石寺の檀家総代である井出氏が、富士宮市内 の曽我神社の氏子総代を兼務していたことが明らかになった。井出氏は、同神社の祭事を主導。神体が祀られている 同神社の例大祭にも参列し、宮司の真後ろの最前列に座って、一緒になって神体を拝んでいた写真を白日の下にされ された。さらには、神社に寄付を行った上、自らの名前で、地域住民に曽我神社の「神札」購入を奨励する文書まで 配布していたことも発覚した。井出氏は宗内にわずか3人しかいない大石寺の総代。その中でも井出家は、代々、総 代を務めてきた家柄である。大石寺百貫坊の総代等を経て、05年(同17年)6月から大石寺総代を務め、13年(同25 年)7月には、再任された。まさに信徒の模範たるべき人物である。一方、曽我神社は神社本庁に属し、伊勢神宮を 本宗と仰ぐ、れっきとした神社である。この事態には、御用機関誌「慧妙」も反論に窮し、10カ月後にようやく「総 本山として『謗法を放置』したり『黙認』していたわけではない」、また「所属寺院の指導教師住職」や「周辺の方 達」が「厳重注意をされた」(13年11月1日付)などと力なく弁解するしかなかった。 しかし、厳重注意されたはず の井出氏は、その直後の11月3日、またまた「神札」購入の奨励文書を地域に配布。そのうえで、何事もなかったか のように御影堂の法要に出席、11月14日の本堂遷座の際には、法主・日如らを先導して、大石寺境内を練り歩いてい たのである。いかに詭弁を弄したとしても、もはや「謗法厳戒」の精神など日蓮正宗には存在しないことを如実に物語 る一コマだった。
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- ニセ本尊拝んでると人生上手くいかないだろ? [転載禁止]©2ch.net
504 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/28(土) 13:06:18.68 ID:O5HCgq1E - 正宗も創価も目くそ鼻くそ
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- ◆学会員さん『ニセ本尊』で検索しよう◆ [転載禁止]©2ch.net
391 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/28(土) 13:24:49.87 ID:O5HCgq1E - 創価が謗法厳戒の精神を失ったのは日蓮正宗も同じだった!
日蓮正宗信徒の代表である大石寺の檀家総代が、神社の氏子総代を兼務。その大謗法を法主・管 長が平然と放置していた。宗開両祖の精神など微塵もない日蓮正宗の実態を示して余りある、落ちぶれた現実である。 ―「神札」購入まで奨励― 衝撃の事実が発覚したのは2013年(平成25年)年頭のことだった。大石寺の檀家総代である井出氏が、富士宮市内 の曽我神社の氏子総代を兼務していたことが明らかになった。井出氏は、同神社の祭事を主導。神体が祀られている 同神社の例大祭にも参列し、宮司の真後ろの最前列に座って、一緒になって神体を拝んでいた写真を白日の下にされ された。さらには、神社に寄付を行った上、自らの名前で、地域住民に曽我神社の「神札」購入を奨励する文書まで 配布していたことも発覚した。井出氏は宗内にわずか3人しかいない大石寺の総代。その中でも井出家は、代々、総 代を務めてきた家柄である。大石寺百貫坊の総代等を経て、05年(同17年)6月から大石寺総代を務め、13年(同25 年)7月には、再任された。まさに信徒の模範たるべき人物である。一方、曽我神社は神社本庁に属し、伊勢神宮を 本宗と仰ぐ、れっきとした神社である。この事態には、御用機関誌「慧妙」も反論に窮し、10カ月後にようやく「総 本山として『謗法を放置』したり『黙認』していたわけではない」、また「所属寺院の指導教師住職」や「周辺の方 達」が「厳重注意をされた」(13年11月1日付)などと力なく弁解するしかなかった。 しかし、厳重注意されたはず の井出氏は、その直後の11月3日、またまた「神札」購入の奨励文書を地域に配布。そのうえで、何事もなかったか のように御影堂の法要に出席、11月14日の本堂遷座の際には、法主・日如らを先導して、大石寺境内を練り歩いてい たのである。いかに詭弁を弄したとしても、もはや「謗法厳戒」の精神など日蓮正宗には存在しないことを如実に物語 る一コマだった。
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507 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/28(土) 13:25:37.71 ID:O5HCgq1E - 無宗教が最強でしょw カルトにかかわらないな
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- ニセ本尊拝んでると人生上手くいかないだろ? [転載禁止]©2ch.net
508 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/28(土) 13:26:48.04 ID:O5HCgq1E - 日顕も日如も池田も原田も竹岡パパ、い神崎もカスw
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- 帰ってきた築山 [無断転載禁止]©2ch.net
449 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/28(土) 13:27:47.94 ID:O5HCgq1E - 創価が謗法厳戒の精神を失ったのは日蓮正宗も同じだった!
日蓮正宗信徒の代表である大石寺の檀家総代が、神社の氏子総代を兼務。その大謗法を法主・管 長が平然と放置していた。宗開両祖の精神など微塵もない日蓮正宗の実態を示して余りある、落ちぶれた現実である。 ―「神札」購入まで奨励― 衝撃の事実が発覚したのは2013年(平成25年)年頭のことだった。大石寺の檀家総代である井出氏が、富士宮市内 の曽我神社の氏子総代を兼務していたことが明らかになった。井出氏は、同神社の祭事を主導。神体が祀られている 同神社の例大祭にも参列し、宮司の真後ろの最前列に座って、一緒になって神体を拝んでいた写真を白日の下にされ された。さらには、神社に寄付を行った上、自らの名前で、地域住民に曽我神社の「神札」購入を奨励する文書まで 配布していたことも発覚した。井出氏は宗内にわずか3人しかいない大石寺の総代。その中でも井出家は、代々、総 代を務めてきた家柄である。大石寺百貫坊の総代等を経て、05年(同17年)6月から大石寺総代を務め、13年(同25 年)7月には、再任された。まさに信徒の模範たるべき人物である。一方、曽我神社は神社本庁に属し、伊勢神宮を 本宗と仰ぐ、れっきとした神社である。この事態には、御用機関誌「慧妙」も反論に窮し、10カ月後にようやく「総 本山として『謗法を放置』したり『黙認』していたわけではない」、また「所属寺院の指導教師住職」や「周辺の方 達」が「厳重注意をされた」(13年11月1日付)などと力なく弁解するしかなかった。 しかし、厳重注意されたはず の井出氏は、その直後の11月3日、またまた「神札」購入の奨励文書を地域に配布。そのうえで、何事もなかったか のように御影堂の法要に出席、11月14日の本堂遷座の際には、法主・日如らを先導して、大石寺境内を練り歩いてい たのである。いかに詭弁を弄したとしても、もはや「謗法厳戒」の精神など日蓮正宗には存在しないことを如実に物語 る一コマだった。
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- ニセ本尊拝んでると人生上手くいかないだろ? [転載禁止]©2ch.net
509 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/28(土) 13:29:20.06 ID:O5HCgq1E - 以下の糞坊主も池田や原田と変わりない
@日蓮正宗大石寺 五十六世法主・大石日応 明治四十一年十月二日付『静岡民友新聞』に「日応の人となり」と題し、「元来大石日応は人も知る如き色魔にて東京に妾(めかけ)を置き又大宮(=富士宮)其他附近に出でては飽くまで不品行を恣(ほしいまま)にして恥ぢぬ程の者」との記事が載りました。 さらには、寺の財産を使い込み「一万円にも及べる借財」(現在の相場に換算し約一億円)を為したと報じられました。 A 日蓮正宗大石寺 六十一世法主・水谷日隆 昭和五年十二月二十九日付『読売新聞』に、芸妓の身代金を払って妾として囲うなどで豪遊、寺の財産約九千円を浪費し約三万円の手形を乱発し(計三万九千円。現在の相場に換算して約一億円)、背任罪に問われ書類送検されたと報じられました。
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- ◆学会員さん『ニセ本尊』で検索しよう◆ [転載禁止]©2ch.net
392 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/28(土) 13:29:32.40 ID:O5HCgq1E - 以下の糞坊主も池田や原田と変わりない
@日蓮正宗大石寺 五十六世法主・大石日応 明治四十一年十月二日付『静岡民友新聞』に「日応の人となり」と題し、「元来大石日応は人も知る如き色魔にて東京に妾(めかけ)を置き又大宮(=富士宮)其他附近に出でては飽くまで不品行を恣(ほしいまま)にして恥ぢぬ程の者」との記事が載りました。 さらには、寺の財産を使い込み「一万円にも及べる借財」(現在の相場に換算し約一億円)を為したと報じられました。 A 日蓮正宗大石寺 六十一世法主・水谷日隆 昭和五年十二月二十九日付『読売新聞』に、芸妓の身代金を払って妾として囲うなどで豪遊、寺の財産約九千円を浪費し約三万円の手形を乱発し(計三万九千円。現在の相場に換算して約一億円)、背任罪に問われ書類送検されたと報じられました。
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- 入会して5年目になるけど質問ある?
486 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/28(土) 13:31:50.90 ID:O5HCgq1E - 創価が謗法厳戒の精神を失ったのは日蓮正宗も同じだった!
日蓮正宗信徒の代表である大石寺の檀家総代が、神社の氏子総代を兼務。その大謗法を法主・管 長が平然と放置していた。宗開両祖の精神など微塵もない日蓮正宗の実態を示して余りある、落ちぶれた現実である。 ―「神札」購入まで奨励― 衝撃の事実が発覚したのは2013年(平成25年)年頭のことだった。大石寺の檀家総代である井出氏が、富士宮市内 の曽我神社の氏子総代を兼務していたことが明らかになった。井出氏は、同神社の祭事を主導。神体が祀られている 同神社の例大祭にも参列し、宮司の真後ろの最前列に座って、一緒になって神体を拝んでいた写真を白日の下にされ された。さらには、神社に寄付を行った上、自らの名前で、地域住民に曽我神社の「神札」購入を奨励する文書まで 配布していたことも発覚した。井出氏は宗内にわずか3人しかいない大石寺の総代。その中でも井出家は、代々、総 代を務めてきた家柄である。大石寺百貫坊の総代等を経て、05年(同17年)6月から大石寺総代を務め、13年(同25 年)7月には、再任された。まさに信徒の模範たるべき人物である。一方、曽我神社は神社本庁に属し、伊勢神宮を 本宗と仰ぐ、れっきとした神社である。この事態には、御用機関誌「慧妙」も反論に窮し、10カ月後にようやく「総 本山として『謗法を放置』したり『黙認』していたわけではない」、また「所属寺院の指導教師住職」や「周辺の方 達」が「厳重注意をされた」(13年11月1日付)などと力なく弁解するしかなかった。 しかし、厳重注意されたはず の井出氏は、その直後の11月3日、またまた「神札」購入の奨励文書を地域に配布。そのうえで、何事もなかったか のように御影堂の法要に出席、11月14日の本堂遷座の際には、法主・日如らを先導して、大石寺境内を練り歩いてい たのである。いかに詭弁を弄したとしても、もはや「謗法厳戒」の精神など日蓮正宗には存在しないことを如実に物語 る一コマだった。
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487 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/28(土) 13:34:08.18 ID:O5HCgq1E - 創価同様にこんな宗派にも日蓮大聖人様の仏法は存在しません!!
日蓮正宗宗門僧侶による性犯罪の記録をひもとけば、あなた方の師匠たる法主達にまでさかのぼります。それを読めば、この師匠にしてこの末弟子ありき≠ニ、納得せざるを得ません。 @日蓮正宗大石寺 五十六世法主・大石日応 明治四十一年十月二日付『静岡民友新聞』に「日応の人となり」と題し、「元来大石日応は人も知る如き色魔にて東京に妾(めかけ)を置き又大宮(=富士宮)其他附近に出でては飽くまで不品行を恣(ほしいまま)にして恥ぢぬ程の者」との記事が載りました。 さらには、寺の財産を使い込み「一万円にも及べる借財」(現在の相場に換算し約一億円)を為したと報じられました。 A 日蓮正宗大石寺 六十一世法主・水谷日隆 昭和五年十二月二十九日付『読売新聞』に、芸妓の身代金を払って妾として囲うなどで豪遊、寺の財産約九千円を浪費し約三万円の手形を乱発し(計三万九千円。現在の相場に換算して約一億円)、背任罪に問われ書類送検されたと報じられました。
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489 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/28(土) 17:46:25.71 ID:O5HCgq1E - 大石寺59世堀日亨が、1922(大正11)年12月20日に出した「熱原法難史」という著書の中で
「然れば当時何事か宗祖(日蓮)の本懐満足と云ふ史実が有ったらうかと考えてみると、 先師が曾て直に此文(『聖人御難事』の『余は二十七年なり』の文のこと)を以て 戒壇本尊顕彰の依文と為れたやうだが、直接の文便は無いやうである」 (日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書『熱原法難史』p72) と、述べていることと軌を一にしている。 「余は二十七年なり」の文が、 「戒壇の大御本尊」なる板本尊が熱原法難のときに造立された証拠であるとする説は、 日蓮正宗大石寺の法主自らがかつては否定していたことなのである。 そういう人物が「戒壇の大御本尊」なる板本尊と「聖人御難事」の文について「直接の文便は無い」と言っているのを、 日蓮正宗はどう説明するのか。
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490 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/28(土) 17:46:59.75 ID:O5HCgq1E - 日蓮正宗大石寺59世法主であった堀日亨自身が、「日興は身延離山のときに、身延山久遠寺から何も持ち出していない」
と断言しているのである。 堀日亨は、自らの著書「富士日興上人詳伝」において、 次のようなことを書いている。 「すでに原殿抄(原殿御返事のこと)の末文にあるごとく、 延山(身延山久遠寺のこと)の常住物は何一つ持ち出していない。 涅槃経の中の二巻を御使用のまま持ち出されたので、 十二月十六日に返還せられてあるくらいで、 したがって日尊実録の中にも『身延沢御退出の刻、公方、聖教、世事雑具等、 皆悉く御墓所に之を置くべきの由、衆徒に触れられし時、面々供奉の人々、 一紙半銭も持ち出ることなし』と書いておる。とうぜんのことである」 (日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書「富士日興上人詳伝」p280〜281より) つまり、日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨は、「日興は身延離山のときに、身延山久遠寺から何も持ち出していない」と、自ら断言しているのである。 そして「日尊実録」の文の意味も、まさにこの意味であり、とうぜんのことである、とまで言い切っているのである。 にもかかわらず、日蓮正宗や創価学会は、信者に「日興は身延離山の時に、すべての重宝を持ち出した」と教えている。そういうことにでもしないと、 日興が日蓮の遺骨やら「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を持ち出したことの説明ができなくなってしまう。 しかし、堀日亨が言うように、「日興は身延離山のときに、身延山久遠寺から何も持ち出していない」ということになると、 大石寺にある「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊も、日蓮の遺骨も、御肉牙も、最初仏も、なにもかもニセモノということになる。
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451 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/28(土) 17:47:44.02 ID:O5HCgq1E - 日蓮正宗大石寺59世法主であった堀日亨自身が、「日興は身延離山のときに、身延山久遠寺から何も持ち出していない」
と断言しているのである。 堀日亨は、自らの著書「富士日興上人詳伝」において、 次のようなことを書いている。 「すでに原殿抄(原殿御返事のこと)の末文にあるごとく、 延山(身延山久遠寺のこと)の常住物は何一つ持ち出していない。 涅槃経の中の二巻を御使用のまま持ち出されたので、 十二月十六日に返還せられてあるくらいで、 したがって日尊実録の中にも『身延沢御退出の刻、公方、聖教、世事雑具等、 皆悉く御墓所に之を置くべきの由、衆徒に触れられし時、面々供奉の人々、 一紙半銭も持ち出ることなし』と書いておる。とうぜんのことである」 (日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書「富士日興上人詳伝」p280〜281より) つまり、日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨は、「日興は身延離山のときに、身延山久遠寺から何も持ち出していない」と、自ら断言しているのである。 そして「日尊実録」の文の意味も、まさにこの意味であり、とうぜんのことである、とまで言い切っているのである。 にもかかわらず、日蓮正宗や創価学会は、信者に「日興は身延離山の時に、すべての重宝を持ち出した」と教えている。そういうことにでもしないと、 日興が日蓮の遺骨やら「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を持ち出したことの説明ができなくなってしまう。 しかし、堀日亨が言うように、「日興は身延離山のときに、身延山久遠寺から何も持ち出していない」ということになると、 大石寺にある「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊も、日蓮の遺骨も、御肉牙も、最初仏も、なにもかもニセモノということになる。
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452 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/28(土) 17:52:04.93 ID:O5HCgq1E - 日蓮正宗が唱えていた教義は日蓮の教えそのものではなく、後世に捏造されたもののようです。
その兆しは派祖日興の遷化直後からあり、やがて5代日時或いは9代日有の時代には、少なくとも「日蓮本仏論」の原型は形成されていたと見てよく、 殊に9代日有の時に他門流(要法寺系)の僧であった左京日教あたりが、 中古天台流の相承観を大石寺に移入して「唯授一人血脈相承」なる神秘的な相承観の基礎を築き、やがては江戸時代中期の26代堅樹院日寛が完成させたと見られています。 殊に日寛は日蓮が弘安二年十月十二に図顕したとされる 「楠板彫刻本門戒壇大本尊」を日蓮一期の究極の曼荼羅であると評していますが、 その学術的な根拠は無く、元日蓮正宗信徒らによって「贋作とされる問題提起」 まで出される始末ですから、事によると日蓮正宗自体の宗教的な立場そのものを 危うくしかねない情況のようです。 この際、日興遺文について簡単に触れておきます。 富士門流の「奥義書」と評される『就註法華経口伝』(『御義口伝』)は、 富士門流の書物ではなく、日蓮遺文や日興遺文としては学術上は扱われていません。 最古の写本と伝わるものは日隆門流の日経が写本したとされるものであり、 引用文献に関しては一致派日像門流の円明日澄の『法華経啓運抄』が最古のもので、いずれも日蓮遷化200年以降のものであり、富士門流には日興真筆はおろか 時代写本すらありません。 所謂『御義口伝』なるものは、日蓮の『法華経』講義を弟子の日興が筆録 したものであるかのように伝承されていますが、その痕跡は皆無なのです。 また、多くの信者が日興の著書と信じている 『五人所破抄』・『富士一跡門徒存知事』などは、日興の筆ではなく、 その弟子の三位日順・寂仙房日澄が書いたものとされていますが、 日代写本と伝えられているものでも、その允可書に不審な点があり、 後世に写本した京都要法寺の広蔵院日辰ですら日代の筆跡であること に疑義を呈しています。
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453 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/28(土) 17:53:03.69 ID:O5HCgq1E - 大石寺の貫主が、本門寺の本堂に安置する本尊は万年救護本尊で、今は房州妙本寺にある、と記録している
堀上人が編纂された富士宗学大全100巻(現在は宗門の富士学林の教科書「研究教学書30巻」にまとめられている)の中に、 17世日精が法主を降りてから書いた「家中抄」という長編の退席寺派とその周辺の歴史書がある。その書の 「富士門家中見聞稿本零編」(日精の1657年の花押入りの直筆文書。法主になったのは1632年なので25年後の文書)において、 広布の時に本門寺が建立されるとされているが、その本堂に安置する本尊について、 「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に付属すと書き給うなり。日興が身に宛て給わる所等とは是 万年救護本尊の事也、今房州妙本寺に在る也」 (通解:日興が身に宛てて給わられた日蓮一期の弘法とは、万年救護本尊のことであり、今は千葉の妙本寺にある。) と記載されていて、これに誰かが二本線を引いて訂正を加えて、 「板本尊の事也、今当山に在る也」 と改竄している記録が残されているのです。 しかも堀上人はこの個所に注釈を加えておられて、 「亨云板の字は精師に似たるも当山の二字は全く因師なり、又二所の消し方精師の例にあらず、 又師に万年救護の説あること年譜には弘安二年に懸とかけたり、常在寺には万年救護板本尊を本堂に安したり」 (通解:日亨が言うには、(書き加えられた「板本尊」の)板の字は、日精の字に似ているが、「当山」の二字は全く日因(31世)の字である。 また、二か所の消し方は日精の例には無い。また、日精には万年救護本尊が本門寺本堂に安置する本尊だとの主張があった。 日精が死ぬ数年前に書いた日蓮聖人年譜には弘安2年に(建立ではなく)懸けた、と書いているし、日精が住職をしていた常在寺には万年救護本尊の板本尊を本堂に安置していた。) と、極めて緻密な分析をされています。要するに、堀上人はすべてを知っておられたのでする。だからこそ、 「宗門から学会を取ったら何も残らない」 「学会以外に宗門に取るべきものがあるかね」 と意味深な発言を繰り返されたのです。確かに、600年もかけて寺派わずか87、信者はわずか3万人だったという実績が、宗門には何も無かったことを物語っています。
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491 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/28(土) 17:53:47.34 ID:O5HCgq1E - 日蓮正宗が唱えていた教義は日蓮の教えそのものではなく、後世に捏造されたもののようです。
その兆しは派祖日興の遷化直後からあり、やがて5代日時或いは9代日有の時代には、少なくとも「日蓮本仏論」の原型は形成されていたと見てよく、 殊に9代日有の時に他門流(要法寺系)の僧であった左京日教あたりが、 中古天台流の相承観を大石寺に移入して「唯授一人血脈相承」なる神秘的な相承観の基礎を築き、やがては江戸時代中期の26代堅樹院日寛が完成させたと見られています。 殊に日寛は日蓮が弘安二年十月十二に図顕したとされる 「楠板彫刻本門戒壇大本尊」を日蓮一期の究極の曼荼羅であると評していますが、 その学術的な根拠は無く、元日蓮正宗信徒らによって「贋作とされる問題提起」 まで出される始末ですから、事によると日蓮正宗自体の宗教的な立場そのものを 危うくしかねない情況のようです。 この際、日興遺文について簡単に触れておきます。 富士門流の「奥義書」と評される『就註法華経口伝』(『御義口伝』)は、 富士門流の書物ではなく、日蓮遺文や日興遺文としては学術上は扱われていません。 最古の写本と伝わるものは日隆門流の日経が写本したとされるものであり、 引用文献に関しては一致派日像門流の円明日澄の『法華経啓運抄』が最古のもので、いずれも日蓮遷化200年以降のものであり、富士門流には日興真筆はおろか 時代写本すらありません。 所謂『御義口伝』なるものは、日蓮の『法華経』講義を弟子の日興が筆録 したものであるかのように伝承されていますが、その痕跡は皆無なのです。 また、多くの信者が日興の著書と信じている 『五人所破抄』・『富士一跡門徒存知事』などは、日興の筆ではなく、 その弟子の三位日順・寂仙房日澄が書いたものとされていますが、 日代写本と伝えられているものでも、その允可書に不審な点があり、 後世に写本した京都要法寺の広蔵院日辰ですら日代の筆跡であること に疑義を呈しています。
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492 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/28(土) 17:54:31.92 ID:O5HCgq1E - 大石寺の貫主が、本門寺の本堂に安置する本尊は万年救護本尊で、今は房州妙本寺にある、と記録している
堀上人が編纂された富士宗学大全100巻(現在は宗門の富士学林の教科書「研究教学書30巻」にまとめられている)の中に、 17世日精が法主を降りてから書いた「家中抄」という長編の退席寺派とその周辺の歴史書がある。その書の 「富士門家中見聞稿本零編」(日精の1657年の花押入りの直筆文書。法主になったのは1632年なので25年後の文書)において、 広布の時に本門寺が建立されるとされているが、その本堂に安置する本尊について、 「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に付属すと書き給うなり。日興が身に宛て給わる所等とは是 万年救護本尊の事也、今房州妙本寺に在る也」 (通解:日興が身に宛てて給わられた日蓮一期の弘法とは、万年救護本尊のことであり、今は千葉の妙本寺にある。) と記載されていて、これに誰かが二本線を引いて訂正を加えて、 「板本尊の事也、今当山に在る也」 と改竄している記録が残されているのです。 しかも堀上人はこの個所に注釈を加えておられて、 「亨云板の字は精師に似たるも当山の二字は全く因師なり、又二所の消し方精師の例にあらず、 又師に万年救護の説あること年譜には弘安二年に懸とかけたり、常在寺には万年救護板本尊を本堂に安したり」 (通解:日亨が言うには、(書き加えられた「板本尊」の)板の字は、日精の字に似ているが、「当山」の二字は全く日因(31世)の字である。 また、二か所の消し方は日精の例には無い。また、日精には万年救護本尊が本門寺本堂に安置する本尊だとの主張があった。 日精が死ぬ数年前に書いた日蓮聖人年譜には弘安2年に(建立ではなく)懸けた、と書いているし、日精が住職をしていた常在寺には万年救護本尊の板本尊を本堂に安置していた。) と、極めて緻密な分析をされています。要するに、堀上人はすべてを知っておられたのでする。だからこそ、 「宗門から学会を取ったら何も残らない」 「学会以外に宗門に取るべきものがあるかね」 と意味深な発言を繰り返されたのです。確かに、600年もかけて寺派わずか87、信者はわずか3万人だったという実績が、宗門には何も無かったことを物語っています。
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- 日蓮って ver.44
490 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/28(土) 22:18:31.20 ID:O5HCgq1E - 日亨上人が御授戒の儀式について
「近古に至って、にわかにその式が新設せられた」と記されている通り、 宗門が「授戒文」を制定したのは昭和四十一年二月九日である (下の資料を参照)。 実際、大聖人御在世においては出家の弟子に対してさえ 最蓮房以外には授戒されたという記録は残っておらず、 ましてや在家の信徒が授戒を受けた記録はない。 本来、「授戒」は入会に際して一つのケジメとして始められたもので 「昭和十二年頃、学会の草創期に牧口初代会長が宗門に依頼して 始められた」とは、当時をよく知る学会の和泉覚氏 (故人、元最高指導会議議長)の話である。 学会の出現以前は日蓮正宗に入信する人もおらず、 「授戒」の必要もなかった。 「授戒文」制定の理由は、 「各寺約十指に余る夫々の様式」 「その中には二、三意義に於いて、過不足と思われるものも認められる」 「宗門的見地より統一する必要があると思われる」というものだった。 即ち、昔は御授戒など行っていなかった宗門は、 学会に入会する人に対して実施するようになったが、各寺はバラバラだった。 そこで昭和四十一年に正式に制定した経緯があり、 今の勧誡も授戒も深い意味はない。
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- ニセ本尊拝んでると人生上手くいかないだろ? [転載禁止]©2ch.net
510 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2018/07/28(土) 22:19:03.54 ID:O5HCgq1E - 日亨上人が御授戒の儀式について
「近古に至って、にわかにその式が新設せられた」と記されている通り、 宗門が「授戒文」を制定したのは昭和四十一年二月九日である (下の資料を参照)。 実際、大聖人御在世においては出家の弟子に対してさえ 最蓮房以外には授戒されたという記録は残っておらず、 ましてや在家の信徒が授戒を受けた記録はない。 本来、「授戒」は入会に際して一つのケジメとして始められたもので 「昭和十二年頃、学会の草創期に牧口初代会長が宗門に依頼して 始められた」とは、当時をよく知る学会の和泉覚氏 (故人、元最高指導会議議長)の話である。 学会の出現以前は日蓮正宗に入信する人もおらず、 「授戒」の必要もなかった。 「授戒文」制定の理由は、 「各寺約十指に余る夫々の様式」 「その中には二、三意義に於いて、過不足と思われるものも認められる」 「宗門的見地より統一する必要があると思われる」というものだった。 即ち、昔は御授戒など行っていなかった宗門は、 学会に入会する人に対して実施するようになったが、各寺はバラバラだった。 そこで昭和四十一年に正式に制定した経緯があり、 今の勧誡も授戒も深い意味はない。
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- ◆学会員さん『ニセ本尊』で検索しよう◆ [転載禁止]©2ch.net
393 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2018/07/28(土) 22:19:34.69 ID:O5HCgq1E - 日亨上人が御授戒の儀式について
「近古に至って、にわかにその式が新設せられた」と記されている通り、 宗門が「授戒文」を制定したのは昭和四十一年二月九日である (下の資料を参照)。 実際、大聖人御在世においては出家の弟子に対してさえ 最蓮房以外には授戒されたという記録は残っておらず、 ましてや在家の信徒が授戒を受けた記録はない。 本来、「授戒」は入会に際して一つのケジメとして始められたもので 「昭和十二年頃、学会の草創期に牧口初代会長が宗門に依頼して 始められた」とは、当時をよく知る学会の和泉覚氏 (故人、元最高指導会議議長)の話である。 学会の出現以前は日蓮正宗に入信する人もおらず、 「授戒」の必要もなかった。 「授戒文」制定の理由は、 「各寺約十指に余る夫々の様式」 「その中には二、三意義に於いて、過不足と思われるものも認められる」 「宗門的見地より統一する必要があると思われる」というものだった。 即ち、昔は御授戒など行っていなかった宗門は、 学会に入会する人に対して実施するようになったが、各寺はバラバラだった。 そこで昭和四十一年に正式に制定した経緯があり、 今の勧誡も授戒も深い意味はない。
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- 靖国神社のみたま祭りに、創価学会が提灯を奉納?
9 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/28(土) 22:20:37.94 ID:O5HCgq1E - 日亨上人が御授戒の儀式について
「近古に至って、にわかにその式が新設せられた」と記されている通り、 宗門が「授戒文」を制定したのは昭和四十一年二月九日である (下の資料を参照)。 実際、大聖人御在世においては出家の弟子に対してさえ 最蓮房以外には授戒されたという記録は残っておらず、 ましてや在家の信徒が授戒を受けた記録はない。 本来、「授戒」は入会に際して一つのケジメとして始められたもので 「昭和十二年頃、学会の草創期に牧口初代会長が宗門に依頼して 始められた」とは、当時をよく知る学会の和泉覚氏 (故人、元最高指導会議議長)の話である。 学会の出現以前は日蓮正宗に入信する人もおらず、 「授戒」の必要もなかった。 「授戒文」制定の理由は、 「各寺約十指に余る夫々の様式」 「その中には二、三意義に於いて、過不足と思われるものも認められる」 「宗門的見地より統一する必要があると思われる」というものだった。 即ち、昔は御授戒など行っていなかった宗門は、 学会に入会する人に対して実施するようになったが、各寺はバラバラだった。 そこで昭和四十一年に正式に制定した経緯があり、 今の勧誡も授戒も深い意味はない。
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- 入会して5年目になるけど質問ある?
493 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2018/07/28(土) 22:21:24.11 ID:O5HCgq1E - 日亨上人が御授戒の儀式について
「近古に至って、にわかにその式が新設せられた」と記されている通り、 宗門が「授戒文」を制定したのは昭和四十一年二月九日である (下の資料を参照)。 実際、大聖人御在世においては出家の弟子に対してさえ 最蓮房以外には授戒されたという記録は残っておらず、 ましてや在家の信徒が授戒を受けた記録はない。 本来、「授戒」は入会に際して一つのケジメとして始められたもので 「昭和十二年頃、学会の草創期に牧口初代会長が宗門に依頼して 始められた」とは、当時をよく知る学会の和泉覚氏 (故人、元最高指導会議議長)の話である。 学会の出現以前は日蓮正宗に入信する人もおらず、 「授戒」の必要もなかった。 「授戒文」制定の理由は、 「各寺約十指に余る夫々の様式」 「その中には二、三意義に於いて、過不足と思われるものも認められる」 「宗門的見地より統一する必要があると思われる」というものだった。 即ち、昔は御授戒など行っていなかった宗門は、 学会に入会する人に対して実施するようになったが、各寺はバラバラだった。 そこで昭和四十一年に正式に制定した経緯があり、 今の勧誡も授戒も深い意味はない。
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- 大石寺教義と板本尊真偽論の考察3 [無断転載禁止]©2ch.net
710 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2018/07/28(土) 22:21:55.93 ID:O5HCgq1E - 日亨上人が御授戒の儀式について
「近古に至って、にわかにその式が新設せられた」と記されている通り、 宗門が「授戒文」を制定したのは昭和四十一年二月九日である (下の資料を参照)。 実際、大聖人御在世においては出家の弟子に対してさえ 最蓮房以外には授戒されたという記録は残っておらず、 ましてや在家の信徒が授戒を受けた記録はない。 本来、「授戒」は入会に際して一つのケジメとして始められたもので 「昭和十二年頃、学会の草創期に牧口初代会長が宗門に依頼して 始められた」とは、当時をよく知る学会の和泉覚氏 (故人、元最高指導会議議長)の話である。 学会の出現以前は日蓮正宗に入信する人もおらず、 「授戒」の必要もなかった。 「授戒文」制定の理由は、 「各寺約十指に余る夫々の様式」 「その中には二、三意義に於いて、過不足と思われるものも認められる」 「宗門的見地より統一する必要があると思われる」というものだった。 即ち、昔は御授戒など行っていなかった宗門は、 学会に入会する人に対して実施するようになったが、各寺はバラバラだった。 そこで昭和四十一年に正式に制定した経緯があり、 今の勧誡も授戒も深い意味はない。
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- 歴代法主が記録した大御本尊の寸法がバラバラな件 [無断転載禁止]©2ch.net
803 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2018/07/28(土) 22:22:21.44 ID:O5HCgq1E - 日亨上人が御授戒の儀式について
「近古に至って、にわかにその式が新設せられた」と記されている通り、 宗門が「授戒文」を制定したのは昭和四十一年二月九日である (下の資料を参照)。 実際、大聖人御在世においては出家の弟子に対してさえ 最蓮房以外には授戒されたという記録は残っておらず、 ましてや在家の信徒が授戒を受けた記録はない。 本来、「授戒」は入会に際して一つのケジメとして始められたもので 「昭和十二年頃、学会の草創期に牧口初代会長が宗門に依頼して 始められた」とは、当時をよく知る学会の和泉覚氏 (故人、元最高指導会議議長)の話である。 学会の出現以前は日蓮正宗に入信する人もおらず、 「授戒」の必要もなかった。 「授戒文」制定の理由は、 「各寺約十指に余る夫々の様式」 「その中には二、三意義に於いて、過不足と思われるものも認められる」 「宗門的見地より統一する必要があると思われる」というものだった。 即ち、昔は御授戒など行っていなかった宗門は、 学会に入会する人に対して実施するようになったが、各寺はバラバラだった。 そこで昭和四十一年に正式に制定した経緯があり、 今の勧誡も授戒も深い意味はない。
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- 日 蓮 正 宗 が 終 わ っ た 理 由
50 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/28(土) 22:23:03.67 ID:O5HCgq1E - 日亨上人が御授戒の儀式について
「近古に至って、にわかにその式が新設せられた」と記されている通り、 宗門が「授戒文」を制定したのは昭和四十一年二月九日である (下の資料を参照)。 実際、大聖人御在世においては出家の弟子に対してさえ 最蓮房以外には授戒されたという記録は残っておらず、 ましてや在家の信徒が授戒を受けた記録はない。 本来、「授戒」は入会に際して一つのケジメとして始められたもので 「昭和十二年頃、学会の草創期に牧口初代会長が宗門に依頼して 始められた」とは、当時をよく知る学会の和泉覚氏 (故人、元最高指導会議議長)の話である。 学会の出現以前は日蓮正宗に入信する人もおらず、 「授戒」の必要もなかった。 「授戒文」制定の理由は、 「各寺約十指に余る夫々の様式」 「その中には二、三意義に於いて、過不足と思われるものも認められる」 「宗門的見地より統一する必要があると思われる」というものだった。 即ち、昔は御授戒など行っていなかった宗門は、 学会に入会する人に対して実施するようになったが、各寺はバラバラだった。 そこで昭和四十一年に正式に制定した経緯があり、 今の勧誡も授戒も深い意味はない。
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