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326 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/26(木) 09:38:06.78 ID:5vsZ08ko - ◎戒壇の大御本尊が大聖人御在世には存在していなかった証拠の数々
(1)日興上人が身延を離山し、富士に移る際の宝物の中に板本尊の記録は無い (是1) 堀上人が昭和39年4月に「富士日興上人詳伝」という分厚い歴史資料集を 執筆されて、日興上人が身延を離れ、富士に移られてからの事跡や、その後の 大石寺派となってからの悲惨な歴史などを紹介されていますが、その中の 日興上人が身延を離山する際の資料等の中には、どこにも板本尊についての 記録はありません。そればかりか、伝説としての板本尊の存在に疑義を投げ かけておられるのです。 「板本尊いたっては研究の余地が存ずる。」 「すでに原殿抄の末文にあるごとく、延山の常住物はなに一つ持ち出していない。」 「当初の日円入道(波木井実長)には、夢にも富士の板本尊を渇仰する思想はなく、後世もまたしかりであろう。本師は現に原殿抄全文を引用しながら、板本尊を延山が奪い返そうとするなんどの記事は、あまりにもまた(荒唐)無稽の沙汰である。」 「これをもって無条件に準守する頭脳を切り換えてもらいたさに数々書くのである。」 等と、若干婉曲ではあるものの、数百年にわたる伝説によって作られた既成概念 (日興上人が身延離山する際には、戒壇の大御本尊を含め一切の宝物を奉持して いたとする思い込み)を変更することを何度も示されているのである。 要するに、日興上人が身延を離山した時に、板本尊は存在していなかった、 というのが堀上人の結論なのです。
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327 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/26(木) 09:38:29.20 ID:5vsZ08ko - 2)日目師等の残した日興上人御遺跡事の中で、本門寺本堂に安置するものの記載は「日蓮聖人御影並びに御下文」しか記載されていない(是2)
大石寺に板本尊が大聖人御在世から存在していたのであれば、当然のことながらその存在は歴史上に記録として残るのが当然です。ところが、 (1)の日興上人の身延離山の際の記録にも無いばかりか、日興上人の入滅に際し、正慶2年2月13日に日目、日仙、日善の本六の3師が花押入り の連名で書き残した「日興上人御遺跡事」にさえも、 「本門寺建立の時に本堂に納め奉るべき」ものとして記録されているのは、 「日蓮聖人御影並御下文」(大聖人のお人形と、園城寺申状のこと)(歴代法主全書1-213) と書き残されているだけで、この時点では広布の時の本門寺本堂に安置するべき板本尊は存在しなかったと考えざるを得ません。 この文書の内容は、上記の2つの日興上人の遺跡を象徴する宝物について、 「本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし。この條、日興上人の仰せにより支配奉ることかくの如し。この旨に背き、異議をなし、失いたらん輩は、永く大謗法と為すべし。」 と、日興上人が残された最も大事なものについての取り扱いを定めているのですが、もしも大聖人の出世の本懐としての板本尊がその時点で存在していたら、 その記録を残さないはずがありません。これもこの時点で戒壇の大御本尊は存在しなかったという証拠の一つです。
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328 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/26(木) 09:38:51.85 ID:5vsZ08ko - (5)「南無大迦葉尊者」の記載は弘安3年3月から11月に限られる(是5)
これらの十界の座配の中で特筆するべきは、迦葉尊者の書き方です。 130数体に及ぶ真筆本尊の中で、迦葉尊者の書き方は非常に明確な変遷があります。 @ 弘安3年3月以前は「南無迦葉尊者」 A 弘安3年3月から11月は「南無大迦葉尊者」 B 弘安3年11月以降は「南無大迦葉尊者等」 戒壇の大御本尊が建立されたとするのは弘安2年10月のはずなので、当然「南無迦葉尊者」であるはずですが、阿部の主張のように弘安3年5月の日禅授与本尊を模写したのであれば、「南無大迦葉尊者」となっていることになるのです。 そしてやはり事実は、弘安3年3月から11月にしか書かれていない「南無大迦葉尊者」という表現が、弘安2年10月と称する戒壇の大御本尊には記載されているのです。 ここでもまた日顕が暴露したとおり、日禅授与本尊を模写したことを前提とした仮定が裏付けられた訳です。
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329 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/26(木) 09:39:23.80 ID:5vsZ08ko - 6)日興上人が書写された多数の御本尊は日禅授与本尊以外の御本尊を書写している(是6)
歴代法主は常住本尊を書写するに際して「書写之」と書きますが、この「之」とは「戒壇の大御本尊」という主張が、 以前は大石寺派ではまことしやかに流されていました。 しかし、日興上人が「書写之」として書き残されたたくさんの御本尊の中に、この戒壇の大御本尊と同じ座配のものがどれほどあるかをいくつも調べてみましたが、 少なくとも私が調べた範囲では見当たらないのです。数百もの日興上人の真筆御本尊の中には、日禅授与本尊を書写したものは存在するのかもしれませんが、 大聖人の御本尊の重要性を熟知し、五老僧の本尊不敬を厳しく批判されておられた厳格な日興上人が、もしも血脈相伝の根本中の根本と称する「一大秘法」の戒壇の大御本尊 という教義の根本が現実に存在したのであれば、それを無視して、他の大聖人の御本尊を書写するとはどういうことでしょうか? 要するにこのことも、日興上人の御存命の頃には、そのような戒壇の大御本尊と称する「一大秘法」は存在していなかったということの傍証なのです。
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330 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/26(木) 09:39:54.85 ID:5vsZ08ko - (7)歴史上初めて板本尊の記録が残るのは、大聖人滅後約280年も経った1561年の保田妙本寺日我の文書(是7)
すでに指摘したとおり、大聖人の出世の本懐とされた戒壇の大御本尊の存在は、日興上人が身延から富士に移られた際の宝物の中にも、 その後の日興上人御在世中の文献にも何一つその記録は残っていません。 板本尊という教義上特別に重要なはずの存在が、歴史上最初の記録として文献に現れるのは、大石寺派ではなく、 4世日道と決別した日郷が開いた寺である千葉県の保田妙本寺出身の、日我という学僧が書き残した「観心本尊抄抜書」なのです。 「書写の本尊に現文あり、造立の仏に現証あり。久遠寺の板本尊今大石寺に在り大聖御存日の時の造立なり、池上の削りかけの御影、 御入滅あるべきその九十月に造らせられるなり、一体の釈迦の事は御遺言にも墓所の傍に立て置くべく候」(富要-171) しかもその時期は、大聖人滅後ほぼ280年もの時間が流れているのです。現代との時間の隔たりで言えば、江戸時代の中頃ぐらいです。 大聖人の出世の本懐というものがもしも最初から存在していたら、300年近くも歴史の表面に記録が残らないはずがありません。大聖人滅後にそっと模刻して、しばらく保管していたのです。
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331 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/26(木) 09:40:32.02 ID:5vsZ08ko - 8)大石寺派の文献で最初に板本尊の記録が残るのは、1573年以降の日主の文書(是8)
歴史上初めて板本尊に関する記載が大石寺派の文献に現れたのは、大聖人滅後300年ほども経った、 1580年頃に書かれた14世日主の「日興跡條々事示書」が最初のことです。 そして、それ以降は頻繁に記録が残されているのです。300年にわたって、 その存在すら誰も記録に残さないような重大な「宗祖の出世の本懐」が存在するなどということなど考えられるでしょうか。 ◎改竄がなされた「日興跡條々事」ではなく、その草本が公開された 現存する「日興跡條々事」は明らかな改竄が見受けられますが、堀上人が富士宗学要集8巻17ページに記載しているように、 「正本案文共に総本山に現存す」 と記された「案文」が「日蓮と本尊伝承」(水声社 金原明彦)で公開されました。その内容は、 「日興カ当身弘安弐年所給大本尊」 と、日興上人に弘安2年に給わったところの大本尊、ということが記録されているのです。 つまり、大聖人から日興上人に継承されたのは、「弘安2年の大御本尊」ではなく、 大聖人から日興上人に「弘安2年に与えられた」「大本尊」ということなのである。これに該当するものとしては、 例えば万年救護本尊は大聖人から日興上人に弘安2年に与えられ、その授与書きには御真筆本尊で唯一「大本尊」という 表現が記されているのです。 そのためか、次項に記載するとおり、唯授一人の血脈相承を受けた歴代の中に万年救護本尊を根本とする見解を持った法主も存在したのです。
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332 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/26(木) 09:41:09.78 ID:5vsZ08ko - (9)大石寺の貫主が、本門寺の本堂に安置する本尊は万年救護本尊で、今は房州妙本寺にある、と記録している(是9)
堀上人が編纂された富士宗学大全100巻(現在は宗門の富士学林の教科書「研究教学書30巻」にまとめられている)の中に、 17世日精が法主を降りてから書いた「家中抄」という長編の退席寺派とその周辺の歴史書がある。その書の 「富士門家中見聞稿本零編」(日精の1657年の花押入りの直筆文書。法主になったのは1632年なので25年後の文書)において、 広布の時に本門寺が建立されるとされているが、その本堂に安置する本尊について、 「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に付属すと書き給うなり。日興が身に宛て給わる所等とは是 万年救護本尊の事也、今房州妙本寺に在る也」 (通解:日興が身に宛てて給わられた日蓮一期の弘法とは、万年救護本尊のことであり、今は千葉の妙本寺にある。) と記載されていて、これに誰かが二本線を引いて訂正を加えて、 「板本尊の事也、今当山に在る也」 と改竄している記録が残されているのです。 しかも堀上人はこの個所に注釈を加えておられて、 「亨云板の字は精師に似たるも当山の二字は全く因師なり、又二所の消し方精師の例にあらず、 又師に万年救護の説あること年譜には弘安二年に懸とかけたり、常在寺には万年救護板本尊を本堂に安したり」 (通解:日亨が言うには、(書き加えられた「板本尊」の)板の字は、日精の字に似ているが、「当山」の二字は全く日因(31世)の字である。 また、二か所の消し方は日精の例には無い。また、日精には万年救護本尊が本門寺本堂に安置する本尊だとの主張があった。 日精が死ぬ数年前に書いた日蓮聖人年譜には弘安2年に(建立ではなく)懸けた、と書いているし、日精が住職をしていた常在寺には万年救護本尊の板本尊を本堂に安置していた。) と、極めて緻密な分析をされています。要するに、堀上人はすべてを知っておられたのでする。だからこそ、 「宗門から学会を取ったら何も残らない」 「学会以外に宗門に取るべきものがあるかね」 と意味深な発言を繰り返されたのです。確かに、600年もかけて寺派わずか87、信者はわずか3万人だったという実績が、宗門には何も無かったことを物語っています。
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333 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/26(木) 09:41:47.46 ID:5vsZ08ko - 以上の事実を知ってもなお「戒壇の大御本尊が大聖人の出世の本懐だと信じる」と、証拠も示せずに幻想にしがみつく方は、「イワシの頭を信じているんだが何か文句あるか」と開き直る原始人と何ら変わりの無い狂信、邪教の信者と言うことが出来ます。
大聖人が御書で示されている原理を確認してみましょう。 「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」 つまり、証拠を示せない主張は邪教だと大聖人は断定されているのです。やはり大石寺派は邪教だったのです。
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334 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/26(木) 09:42:44.33 ID:5vsZ08ko - 日蓮正宗大石寺59世法主であった堀日亨自身が、「日興は身延離山のときに、身延山久遠寺から何も持ち出していない」
と断言しているのである。 堀日亨は、自らの著書「富士日興上人詳伝」において、 次のようなことを書いている。 「すでに原殿抄(原殿御返事のこと)の末文にあるごとく、 延山(身延山久遠寺のこと)の常住物は何一つ持ち出していない。 涅槃経の中の二巻を御使用のまま持ち出されたので、 十二月十六日に返還せられてあるくらいで、 したがって日尊実録の中にも『身延沢御退出の刻、公方、聖教、世事雑具等、 皆悉く御墓所に之を置くべきの由、衆徒に触れられし時、面々供奉の人々、 一紙半銭も持ち出ることなし』と書いておる。とうぜんのことである」 (日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書「富士日興上人詳伝」p280〜281より) つまり、日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨は、「日興は身延離山のときに、身延山久遠寺から何も持ち出していない」と、自ら断言しているのである。 そして「日尊実録」の文の意味も、まさにこの意味であり、とうぜんのことである、とまで言い切っているのである。 にもかかわらず、日蓮正宗や創価学会は、信者に「日興は身延離山の時に、すべての重宝を持ち出した」と教えている。そういうことにでもしないと、 日興が日蓮の遺骨やら「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊を持ち出したことの説明ができなくなってしまう。 しかし、堀日亨が言うように、「日興は身延離山のときに、身延山久遠寺から何も持ち出していない」ということになると、 大石寺にある「本門戒壇の大御本尊」なる名前の板本尊も、日蓮の遺骨も、御肉牙も、最初仏も、なにもかもニセモノということになる。
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- 大石寺教義と板本尊真偽論の考察3 [無断転載禁止]©2ch.net
708 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/26(木) 09:48:12.97 ID:5vsZ08ko - 大石寺の貫主が、本門寺の本堂に安置する本尊は万年救護本尊で、今は房州妙本寺にある、と記録している(是9)
堀上人が編纂された富士宗学大全100巻(現在は宗門の富士学林の教科書「研究教学書30巻」にまとめられている)の中に、 17世日精が法主を降りてから書いた「家中抄」という長編の退席寺派とその周辺の歴史書がある。その書の 「富士門家中見聞稿本零編」(日精の1657年の花押入りの直筆文書。法主になったのは1632年なので25年後の文書)において、 広布の時に本門寺が建立されるとされているが、その本堂に安置する本尊について、 「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に付属すと書き給うなり。日興が身に宛て給わる所等とは是 万年救護本尊の事也、今房州妙本寺に在る也」 (通解:日興が身に宛てて給わられた日蓮一期の弘法とは、万年救護本尊のことであり、今は千葉の妙本寺にある。) と記載されていて、これに誰かが二本線を引いて訂正を加えて、 「板本尊の事也、今当山に在る也」 と改竄している記録が残されているのです。 しかも堀上人はこの個所に注釈を加えておられて、 「亨云板の字は精師に似たるも当山の二字は全く因師なり、又二所の消し方精師の例にあらず、 又師に万年救護の説あること年譜には弘安二年に懸とかけたり、常在寺には万年救護板本尊を本堂に安したり」 (通解:日亨が言うには、(書き加えられた「板本尊」の)板の字は、日精の字に似ているが、「当山」の二字は全く日因(31世)の字である。 また、二か所の消し方は日精の例には無い。また、日精には万年救護本尊が本門寺本堂に安置する本尊だとの主張があった。 日精が死ぬ数年前に書いた日蓮聖人年譜には弘安2年に(建立ではなく)懸けた、と書いているし、日精が住職をしていた常在寺には万年救護本尊の板本尊を本堂に安置していた。) と、極めて緻密な分析をされています。要するに、堀上人はすべてを知っておられたのでする。だからこそ、 「宗門から学会を取ったら何も残らない」 「学会以外に宗門に取るべきものがあるかね」 と意味深な発言を繰り返されたのです。確かに、600年もかけて寺派わずか87、信者はわずか3万人だったという実績が、宗門には何も無かったことを物語っています。
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- 歴代法主が記録した大御本尊の寸法がバラバラな件 [無断転載禁止]©2ch.net
801 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/26(木) 09:48:30.56 ID:5vsZ08ko - 大石寺の貫主が、本門寺の本堂に安置する本尊は万年救護本尊で、今は房州妙本寺にある、と記録している(是9)
堀上人が編纂された富士宗学大全100巻(現在は宗門の富士学林の教科書「研究教学書30巻」にまとめられている)の中に、 17世日精が法主を降りてから書いた「家中抄」という長編の退席寺派とその周辺の歴史書がある。その書の 「富士門家中見聞稿本零編」(日精の1657年の花押入りの直筆文書。法主になったのは1632年なので25年後の文書)において、 広布の時に本門寺が建立されるとされているが、その本堂に安置する本尊について、 「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に付属すと書き給うなり。日興が身に宛て給わる所等とは是 万年救護本尊の事也、今房州妙本寺に在る也」 (通解:日興が身に宛てて給わられた日蓮一期の弘法とは、万年救護本尊のことであり、今は千葉の妙本寺にある。) と記載されていて、これに誰かが二本線を引いて訂正を加えて、 「板本尊の事也、今当山に在る也」 と改竄している記録が残されているのです。 しかも堀上人はこの個所に注釈を加えておられて、 「亨云板の字は精師に似たるも当山の二字は全く因師なり、又二所の消し方精師の例にあらず、 又師に万年救護の説あること年譜には弘安二年に懸とかけたり、常在寺には万年救護板本尊を本堂に安したり」 (通解:日亨が言うには、(書き加えられた「板本尊」の)板の字は、日精の字に似ているが、「当山」の二字は全く日因(31世)の字である。 また、二か所の消し方は日精の例には無い。また、日精には万年救護本尊が本門寺本堂に安置する本尊だとの主張があった。 日精が死ぬ数年前に書いた日蓮聖人年譜には弘安2年に(建立ではなく)懸けた、と書いているし、日精が住職をしていた常在寺には万年救護本尊の板本尊を本堂に安置していた。) と、極めて緻密な分析をされています。要するに、堀上人はすべてを知っておられたのでする。だからこそ、 「宗門から学会を取ったら何も残らない」 「学会以外に宗門に取るべきものがあるかね」 と意味深な発言を繰り返されたのです。確かに、600年もかけて寺派わずか87、信者はわずか3万人だったという実績が、宗門には何も無かったことを物語っています。
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- どんどん会員が減ってる実情を報告しましょうPart.3
664 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/26(木) 09:49:33.47 ID:5vsZ08ko - 大石寺の貫主が、本門寺の本堂に安置する本尊は万年救護本尊で、今は房州妙本寺にある、と記録している(是9)
堀上人が編纂された富士宗学大全100巻(現在は宗門の富士学林の教科書「研究教学書30巻」にまとめられている)の中に、 17世日精が法主を降りてから書いた「家中抄」という長編の退席寺派とその周辺の歴史書がある。その書の 「富士門家中見聞稿本零編」(日精の1657年の花押入りの直筆文書。法主になったのは1632年なので25年後の文書)において、 広布の時に本門寺が建立されるとされているが、その本堂に安置する本尊について、 「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に付属すと書き給うなり。日興が身に宛て給わる所等とは是 万年救護本尊の事也、今房州妙本寺に在る也」 (通解:日興が身に宛てて給わられた日蓮一期の弘法とは、万年救護本尊のことであり、今は千葉の妙本寺にある。) と記載されていて、これに誰かが二本線を引いて訂正を加えて、 「板本尊の事也、今当山に在る也」 と改竄している記録が残されているのです。 しかも堀上人はこの個所に注釈を加えておられて、 「亨云板の字は精師に似たるも当山の二字は全く因師なり、又二所の消し方精師の例にあらず、 又師に万年救護の説あること年譜には弘安二年に懸とかけたり、常在寺には万年救護板本尊を本堂に安したり」 (通解:日亨が言うには、(書き加えられた「板本尊」の)板の字は、日精の字に似ているが、「当山」の二字は全く日因(31世)の字である。 また、二か所の消し方は日精の例には無い。また、日精には万年救護本尊が本門寺本堂に安置する本尊だとの主張があった。 日精が死ぬ数年前に書いた日蓮聖人年譜には弘安2年に(建立ではなく)懸けた、と書いているし、日精が住職をしていた常在寺には万年救護本尊の板本尊を本堂に安置していた。) と、極めて緻密な分析をされています。要するに、堀上人はすべてを知っておられたのでする。だからこそ、 「宗門から学会を取ったら何も残らない」 「学会以外に宗門に取るべきものがあるかね」 と意味深な発言を繰り返されたのです。確かに、600年もかけて寺派わずか87、信者はわずか3万人だったという実績が、宗門には何も無かったことを物語っています。
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- ニセ本尊拝んでると人生上手くいかないだろ? [転載禁止]©2ch.net
475 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/26(木) 13:09:49.97 ID:5vsZ08ko - 法主が書類送検はあり得ない そんなのの本尊があることも ニセ本尊そのもの
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- ニセ本尊拝んでると人生上手くいかないだろ? [転載禁止]©2ch.net
476 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/26(木) 13:16:59.94 ID:5vsZ08ko - ◎本門戒壇の大御本尊が大聖人御在世には存在していなかった証拠の数々
(1)日興上人が身延を離山し、富士に移る際の宝物の中に板本尊の記録は無い (是1) 堀上人が昭和39年4月に「富士日興上人詳伝」という分厚い歴史資料集を 執筆されて、日興上人が身延を離れ、富士に移られてからの事跡や、その後の 大石寺派となってからの悲惨な歴史などを紹介されていますが、その中の 日興上人が身延を離山する際の資料等の中には、どこにも板本尊についての 記録はありません。そればかりか、伝説としての板本尊の存在に疑義を投げ かけておられるのです。 「板本尊いたっては研究の余地が存ずる。」 「すでに原殿抄の末文にあるごとく、延山の常住物はなに一つ持ち出していない。」 「当初の日円入道(波木井実長)には、夢にも富士の板本尊を渇仰する思想はなく、後世もまたしかりであろう。本師は現に原殿抄全文を引用しながら、板本尊を延山が奪い返そうとするなんどの記事は、あまりにもまた(荒唐)無稽の沙汰である。」 「これをもって無条件に準守する頭脳を切り換えてもらいたさに数々書くのである。」 等と、若干婉曲ではあるものの、数百年にわたる伝説によって作られた既成概念 (日興上人が身延離山する際には、戒壇の大御本尊を含め一切の宝物を奉持して いたとする思い込み)を変更することを何度も示されているのである。 要するに、日興上人が身延を離山した時に、板本尊は存在していなかった、 というのが堀上人の結論なのです。
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477 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/26(木) 13:17:21.05 ID:5vsZ08ko - (2)日目師等の残した日興上人御遺跡事の中で、本門寺本堂に安置するものの記載は「日蓮聖人御影並びに御下文」しか記載されていない(是2)
大石寺に板本尊が大聖人御在世から存在していたのであれば、当然のことながらその存在は歴史上に記録として残るのが当然です。ところが、 (1)の日興上人の身延離山の際の記録にも無いばかりか、日興上人の入滅に際し、正慶2年2月13日に日目、日仙、日善の本六の3師が花押入り の連名で書き残した「日興上人御遺跡事」にさえも、 「本門寺建立の時に本堂に納め奉るべき」ものとして記録されているのは、 「日蓮聖人御影並御下文」(大聖人のお人形と、園城寺申状のこと)(歴代法主全書1-213) と書き残されているだけで、この時点では広布の時の本門寺本堂に安置するべき板本尊は存在しなかったと考えざるを得ません。 この文書の内容は、上記の2つの日興上人の遺跡を象徴する宝物について、 「本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし。この條、日興上人の仰せにより支配奉ることかくの如し。この旨に背き、異議をなし、失いたらん輩は、永く大謗法と為すべし。」 と、日興上人が残された最も大事なものについての取り扱いを定めているのですが、もしも大聖人の出世の本懐としての板本尊がその時点で存在していたら、 その記録を残さないはずがありません。これもこの時点で板本尊は存在しなかったという証拠の一つです。
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478 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/26(木) 13:17:44.05 ID:5vsZ08ko - (5)「南無大迦葉尊者」の記載は弘安3年3月から11月に限られる(是5)
これらの十界の座配の中で特筆するべきは、迦葉尊者の書き方です。 130数体に及ぶ真筆本尊の中で、迦葉尊者の書き方は非常に明確な変遷があります。 @ 弘安3年3月以前は「南無迦葉尊者」 A 弘安3年3月から11月は「南無大迦葉尊者」 B 弘安3年11月以降は「南無大迦葉尊者等」 戒壇の大御本尊が建立されたとするのは弘安2年10月のはずなので、当然「南無迦葉尊者」であるはずですが、阿部の主張のように弘安3年5月の日禅授与本尊を模写したのであれば、「南無大迦葉尊者」となっていることになるのです。 そしてやはり事実は、弘安3年3月から11月にしか書かれていない「南無大迦葉尊者」という表現が、弘安2年10月と称する戒壇の大御本尊には記載されているのです。 ここでもまた日顕が暴露したとおり、日禅授与本尊を模写したことを前提とした仮定が裏付けられた訳です。
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479 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/26(木) 13:18:26.18 ID:5vsZ08ko - (6)日興上人が書写された多数の御本尊は日禅授与本尊以外の御本尊を書写している(是6)
歴代法主は常住本尊を書写するに際して「書写之」と書きますが、この「之」とは「戒壇の大御本尊」という主張が、 以前は大石寺派ではまことしやかに流されていました。 しかし、日興上人が「書写之」として書き残されたたくさんの御本尊の中に、この戒壇の大御本尊と同じ座配のものがどれほどあるかをいくつも調べてみましたが、 少なくとも私が調べた範囲では見当たらないのです。数百もの日興上人の真筆御本尊の中には、日禅授与本尊を書写したものは存在するのかもしれませんが、 大聖人の御本尊の重要性を熟知し、五老僧の本尊不敬を厳しく批判されておられた厳格な日興上人が、もしも血脈相伝の根本中の根本と称する「一大秘法」の戒壇の大御本尊 という教義の根本が現実に存在したのであれば、それを無視して、他の大聖人の御本尊を書写するとはどういうことでしょうか? 要するにこのことも、日興上人の御存命の頃には、そのような戒壇の大御本尊と称する「一大秘法」は存在していなかったということの傍証なのです。
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480 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/26(木) 13:18:49.15 ID:5vsZ08ko - (7)歴史上初めて板本尊の記録が残るのは、大聖人滅後約280年も経った1561年の保田妙本寺日我の文書(是7)
すでに指摘したとおり、大聖人の出世の本懐とされた戒壇の大御本尊の存在は、日興上人が身延から富士に移られた際の宝物の中にも、 その後の日興上人御在世中の文献にも何一つその記録は残っていません。 板本尊という教義上特別に重要なはずの存在が、歴史上最初の記録として文献に現れるのは、大石寺派ではなく、 4世日道と決別した日郷が開いた寺である千葉県の保田妙本寺出身の、日我という学僧が書き残した「観心本尊抄抜書」なのです。 「書写の本尊に現文あり、造立の仏に現証あり。久遠寺の板本尊今大石寺に在り大聖御存日の時の造立なり、池上の削りかけの御影、 御入滅あるべきその九十月に造らせられるなり、一体の釈迦の事は御遺言にも墓所の傍に立て置くべく候」(富要-171) しかもその時期は、大聖人滅後ほぼ280年もの時間が流れているのです。現代との時間の隔たりで言えば、江戸時代の中頃ぐらいです。 大聖人の出世の本懐というものがもしも最初から存在していたら、300年近くも歴史の表面に記録が残らないはずがありません。大聖人滅後にそっと模刻して、しばらく保管していたのです。
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481 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/26(木) 13:19:12.92 ID:5vsZ08ko - (8)大石寺派の文献で最初に板本尊の記録が残るのは、1573年以降の日主の文書(是8)
歴史上初めて板本尊に関する記載が大石寺派の文献に現れたのは、大聖人滅後300年ほども経った、 1580年頃に書かれた14世日主の「日興跡條々事示書」が最初のことです。 そして、それ以降は頻繁に記録が残されているのです。300年にわたって、 その存在すら誰も記録に残さないような重大な「宗祖の出世の本懐」が存在するなどということなど考えられるでしょうか。 ◎改竄がなされた「日興跡條々事」ではなく、その草本が公開された 現存する「日興跡條々事」は明らかな改竄が見受けられますが、堀上人が富士宗学要集8巻17ページに記載しているように、 「正本案文共に総本山に現存す」 と記された「案文」が「日蓮と本尊伝承」(水声社 金原明彦)で公開されました。その内容は、 「日興カ当身弘安弐年所給大本尊」 と、日興上人に弘安2年に給わったところの大本尊、ということが記録されているのです。 つまり、大聖人から日興上人に継承されたのは、「弘安2年の大御本尊」ではなく、 大聖人から日興上人に「弘安2年に与えられた」「大本尊」ということなのである。これに該当するものとしては、 例えば万年救護本尊は大聖人から日興上人に弘安2年に与えられ、その授与書きには御真筆本尊で唯一「大本尊」という 表現が記されているのです。 そのためか、次項に記載するとおり、唯授一人の血脈相承を受けた歴代の中に万年救護本尊を根本とする見解を持った法主も存在したのです。
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482 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/26(木) 13:19:39.84 ID:5vsZ08ko - (9)大石寺の貫主が、本門寺の本堂に安置する本尊は万年救護本尊で、今は房州妙本寺にある、と記録している(是9)
堀上人が編纂された富士宗学大全100巻(現在は宗門の富士学林の教科書「研究教学書30巻」にまとめられている)の中に、 17世日精が法主を降りてから書いた「家中抄」という長編の退席寺派とその周辺の歴史書がある。その書の 「富士門家中見聞稿本零編」(日精の1657年の花押入りの直筆文書。法主になったのは1632年なので25年後の文書)において、 広布の時に本門寺が建立されるとされているが、その本堂に安置する本尊について、 「日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に付属すと書き給うなり。日興が身に宛て給わる所等とは是 万年救護本尊の事也、今房州妙本寺に在る也」 (通解:日興が身に宛てて給わられた日蓮一期の弘法とは、万年救護本尊のことであり、今は千葉の妙本寺にある。) と記載されていて、これに誰かが二本線を引いて訂正を加えて、 「板本尊の事也、今当山に在る也」 と改竄している記録が残されているのです。 しかも堀上人はこの個所に注釈を加えておられて、 「亨云板の字は精師に似たるも当山の二字は全く因師なり、又二所の消し方精師の例にあらず、 又師に万年救護の説あること年譜には弘安二年に懸とかけたり、常在寺には万年救護板本尊を本堂に安したり」 (通解:日亨が言うには、(書き加えられた「板本尊」の)板の字は、日精の字に似ているが、「当山」の二字は全く日因(31世)の字である。 また、二か所の消し方は日精の例には無い。また、日精には万年救護本尊が本門寺本堂に安置する本尊だとの主張があった。 日精が死ぬ数年前に書いた日蓮聖人年譜には弘安2年に(建立ではなく)懸けた、と書いているし、日精が住職をしていた常在寺には万年救護本尊の板本尊を本堂に安置していた。) と、極めて緻密な分析をされています。要するに、堀上人はすべてを知っておられたのでする。だからこそ、 「宗門から学会を取ったら何も残らない」 「学会以外に宗門に取るべきものがあるかね」 と意味深な発言を繰り返されたのです。確かに、600年もかけて寺派わずか87、信者はわずか3万人だったという実績が、宗門には何も無かったことを物語っています。
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483 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/26(木) 13:20:04.93 ID:5vsZ08ko - 以上の事実を知ってもなお「戒壇の大御本尊が大聖人の出世の本懐だと信じる」と、証拠も示せずに幻想にしがみつく方は、「イワシの頭を信じているんだが何か文句あるか」と開き直る原始人と何ら変わりの無い狂信、邪教の信者と言うことが出来ます。
大聖人が御書で示されている原理を確認してみましょう。 「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」 つまり、証拠を示せない主張は邪教だと大聖人は断定されているのです。やはり大石寺派は邪教だったのです。
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485 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/26(木) 13:54:44.84 ID:5vsZ08ko - そうなんだよ、すべては日蓮正宗のニセの大御本尊から始まったのが創価学会
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487 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/26(木) 15:27:10.30 ID:5vsZ08ko - 日蓮正宗と創価は大御本尊なんて偽物信じてるからこうなる
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489 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/26(木) 17:11:40.45 ID:5vsZ08ko - ホント見もの楽しみだなw ただ日蓮正宗からまた第二の創価が出ないように
大御本尊がニセモノということも知らせていかなくてはならない
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492 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/26(木) 17:42:45.51 ID:5vsZ08ko - 日蓮正宗法華講総講頭であり、創価学会の最高指導者である池田大作
付け加えますと 池田大作は、日蓮正宗の信者の最上位・ナンバー1の職である「日蓮正宗法華講総頭」に、1964〜1979年と1984〜1990年の、通算21年間就いていました。 1979〜1983年は日蓮正宗法華講名誉総講頭でした。 1965年に任命したのは66世細井日達、1984年に任命したのは67世阿部日顕でした。 北条浩、秋谷栄之助、森田一哉、小泉隆、白木薫次、森田悌二、青木亨、辻武寿、和泉覚ら創価学会の古参最高幹部たちも1990年までは日蓮正宗法華講大講頭(ナンバー2)の職にありました。(あるいは歴任していました) 彼らの生みの親・育ての親・本家本元は日蓮正宗であり、今でも根本の本尊・教義・信仰活動などは日蓮正宗とほとんど同じです。現在でも日蓮正宗も創価学会も、違いはありません。
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494 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/26(木) 19:57:22.36 ID:5vsZ08ko - 勝手に信じてればいいが折伏するなよ、日蓮正宗も創価も折伏がウザい
人に押し付け無理やり信じさせるのがカルトなんだよ
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496 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/26(木) 20:09:13.69 ID:5vsZ08ko - 一般人だが街頭折伏で拉致されかけた、マジで、池袋とか気をつけた方がいい
最近は一般人にまで折伏で迷惑かけてる、日蓮正宗がな
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497 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/26(木) 20:13:54.07 ID:5vsZ08ko - 近年は日蓮正宗信徒が駅前や神社の近辺でビラ配りをしているのをよく見かけます。正月の神社前では、「初詣ですか」と声をかけてきてビラを渡します。内容は「悩みを解決します」という感じになっていた。顕正会っぽいなと思います
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498 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/07/26(木) 20:15:21.25 ID:5vsZ08ko - 一般人を巻き込む折伏を辞めさせるためにも創価同様に日蓮正宗の正体も暴くべき
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