- 日蓮って ver.44
58 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2018/04/15(日) 08:27:03.11 ID:Y5UEpq8w - >>
前スレで種々御書の龍の口部分、貼っといたけど、 いまいち趣旨が理解されてない感じするんで、もういちど。 龍ノ口御法難記念日 http://www.honmon-butsuryushu.or.jp/pg/attemple/item/xn71512557/ ↑これこれ、この絵柄ですよ、この絵柄に相当する 首切り処刑の記述が種々御書にはないのだ、 (種種御振舞御書) …にとりつきてこしごへたつの口(腰越海岸龍の口)にゆきぬ、 此にてぞ有らんずらんとをもうところに(ここで首を切るんだろう) 案にたがはず兵士どもうちまはりさわぎしかば、(思った通り兵士が騒いでいる) 左衛門尉申すやう只今なりとなく(金吾は今首切りですと泣く)、 日蓮申すやう不かくのとのばらかなこれほどの悦びをばわらへかし、 いかにやくそくをばたがへらるるぞと申せし時、 ※ここから光り物シーン、 江のしまのかたより月のごとくひかりたる物まりのやうにて(鞠のような形) 辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる、十二日の夜のあけぐれ 人の面もみへざりしが物のひかり月よのやうにて人人の面もみなみゆ、 『太刀取目くらみたふれ臥し』兵共おぢ怖れけうさめて一町計りはせのき…、 ↑由比ガ浜から龍の口に到着して、いったん休憩に入って、 兵士たちが輪になって、なにやら大声で話をしている、 そうすると金吾が、きっとこの場所で処刑でしょう、 (私も師匠の後を追って、腹を切ります)と言い ピーピー泣き出すので、いやいやここは法華経のために死ぬ 目出度いところだから、決まっている(前世の?)約束事ですよ、 などと、慰めて説得しているところに突然、光の球体が…。
|
- 日蓮って ver.44
59 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2018/04/15(日) 08:46:32.01 ID:Y5UEpq8w - >>58 金吾と雑談中に、光り物があらわれるわけで、
首切り処刑中は、私語厳禁です。 ↑というのは時代劇の首切りシーン見たことある人なら、 わかると思うけど、付添人と雑談中にいきなり後ろから 首切んのか? 考えたら分かるだろーが、幼稚園児じゃあるまいし…。 で、金吾と雑談してるときに突然光り物があらわれると、 そのあと現場はしっちゃかめっちゃかの大混乱になって いろいろ書いてありますが、もう首切り処刑どころの騒ぎではなく、 いったい種々御書のどこに 首切り処刑のシーンが書いてあるのでしょうか? 光り物はたしかに四行ほどあれこれ詳細に記述があるけど、 首切り処刑のシーンは見当たらないわけで、 御書根本の立場からすれば、光り物と処刑は まったく関係がないということなんだけど…。 ※※ そして、そのまま夜が明ければ、一行は何事もなく出発して、 相模の依智というところの庄屋、六郎左衛門邸について、 金吾は屋敷の様子を見て安心してそのまま帰ってしまい、 その晩、鎌倉から佐渡送りの刑が確定したとの使いの文がやってきて、 すぐに中山の富城常忍に佐渡流罪の決定を知らせる御書もあって。 日蓮-金吾は殺されると思ってたけど、平左衛門頼綱の一行は、 犯罪の疑いのある坊さんを、淡々と鎌倉から相模の庄屋宅まで護送しただけでしかなく…。
|
- 日蓮って ver.44
60 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2018/04/15(日) 09:04:00.75 ID:Y5UEpq8w - >>54
これもほんと卑劣きわまりない嘘を、 仏教の美名のもとに信者に吹き込んでる犯罪で、 極楽寺殿 = 北条重時。 ↑これみただけで、極楽寺が徴収してる 関所と港の通行税は、鎌倉幕府の利権として 上納されてるのはあきらかなのに、 まるで奈良から呼ばれた雇われ住職に過ぎない 良観が、鎌倉利権の半分を独り占めしてるかのような そんな言い方で世間をダマす、それが日蓮学会の本質よ。 そんで、通行税の話をするときは、北条重時の名前は すっかり忘れてるわけだけど、妙覚寺の高橋俊隆さんの 解説読んでると、伊豆流罪は念仏衆とモメてる 日蓮さんが、北条重時のワナにハメられて無実の罪に 落とされたという、文献根拠ゼロの精神病の妄想みたいのを しゃらっと話してみせるわけで、 邪魔なときには文献根拠があっても北条重時には消えてもらい、 逆に必要なら文献根拠がなくても、ただの妄想として、 北条重時の名前が登場する、願望が優先する二枚舌構造で、 日蓮学会にありがちな、幻覚が見える妄想障害ですかね、 中尾文化勲章大せんせーにも、そういうとこ見られますが…。
|
- 日蓮って ver.44
61 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2018/04/15(日) 09:17:29.72 ID:Y5UEpq8w - >>51 これもよく気がついたな…。
1265年 聖愚問答抄上 次に道を作り橋を渡す事還つて人の歎きなり、 飯嶋の津にて六浦の関米を取る諸人の歎き是れ多し 諸国七道の木戸是も旅人のわづらい 良観上人の如く及ばぬ身にも…、 1267年 良観が極楽寺開山となり…。 1268年 鎌倉中に、安国論の予言が当たった!という 十一通の売り込み文書を届け、そのうち 極楽寺良観への御状には、こんなあて名書きが、 謹上 極楽寺長老良観聖人御所 けっこー、礼儀正しく媚び売ってるやん、 でも名前の形式がデタラメで、面識ないのがバレバレだな。 1271年 WIKIには「日蓮から祈雨法くらべ と法論を挑まれるが、負ける。」と書いてあるけど、 極楽寺の記録には、1271年には雨乞いの記述がなく、 その二年前1269年に雨乞いをしたとあるらしい。 1277年 頼基陳状に、良観との雨乞い対決の詳細が、 6年の沈黙を破ってはじめて語られる。 六年後なら、世間の人はだれも覚えていないから なんとでも言えるわな、安国論を八年前に幕府に提出した 嘘の作り話と手口は一緒…。 何年も経ってから嘘ついても、昔を覚えている人なんていない…。
|