トップページ > 創価・公明 > 2018年03月18日 > dXYMR31s

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名無しさん@お腹いっぱい。
大石寺教義と板本尊真偽論の考察3 [無断転載禁止]©2ch.net

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大石寺教義と板本尊真偽論の考察3 [無断転載禁止]©2ch.net
456 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/03/18(日) 00:09:36.48 ID:dXYMR31s
つーか、上や下ってなんだ。
宗教って、自分が信じるものを自分なりに解釈したものであって、それはその人にとっては真実ではあるがあくまで主観的な解釈の域を出ない。
日蓮にしても空海にしても。

法華経や大日如来は日蓮や空海からすればどちらも最上の真実。
ただ、どちらが優劣ってのは客観的にはあり得ない。
何を真実とし何に感銘を受けるかは人それぞれ。
各人にとって自分に響くものが真実だし、自分に響かないものはどんなに周囲が評価しようが真実とはならない。

日蓮がやろうとした宗教の優劣付けは、邪宗と天変地異を相関的に結びつけようとしたものだけど、それは日蓮にとっては関連があるんだろう。
もし地上に生じる事象を全てリアルと見なすなら。

しかし、地上の事象がリアルとするのは
別の側面からすれば誤り。
というのは、天変地異や飢餓っていうのは唯色論の解釈からすれば餓えた心の投影であり、釈迦の無常の概念から見れば単なる移り変わりの一端であり、キリストから見れば神の王国から離れた結果。

地上の事象ってのは、解釈によっていくらでもとりようがある。
そこに邪宗の影響を結びつけるのは、あらゆる解釈の中の選択肢の一つでしかない。
物事はあらゆる無数の複雑な要因から成り立っており、全て邪宗を根本原因に帰納させたがるのは日蓮の願望に過ぎない。

宗教に優劣や上下を持ち込むのは、千変万化し実体をとらえることが不可能な諸行無常である事象の性質を理解できていない。
各宗教は、それぞれが無常の事象の一片を捉えて教義化し、さも全体を知ったように表現しているだけ。

全体の表現とは教義化を越える。
ただ、being、流動、is、存在、愛、空。
ただ、南無妙法蓮華経、南無阿弥陀、オーム、bless、おん あびらうんけん ばさら だどばん、只管打坐、沈黙。
ただただ帰一があるのみ。
大石寺教義と板本尊真偽論の考察3 [無断転載禁止]©2ch.net
464 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/03/18(日) 11:50:57.50 ID:dXYMR31s
>>457
そもそも正しいものなんてないんだよ。

人間という認識存在がいなければ、何もない。
宇宙もない、無もない。
人間という認識存在が現れてはじめて、内的事象と外的事象という認識対象が登場する。
だから宇宙とは、人間が自分の意識を投影し、肉体や脳という限定機関でごく一部のみを知覚する主観ホログラムでしかない。

人間は、宇宙は自分が投影した主観対象だと思いたくない。
なぜなら、あらゆるものは人間の恣意的意味付けに過ぎないと知るのが怖いから。
宇宙は人間の恣意的意味付けなら、宇宙に正しいことも間違いも無いことになるし、生じること全ては自分が作っているゆえに、自分が責任を負わなければいけなくなるから。

人間は無が怖い。
自分は死に行く宇宙内の単なる不確実な戯れだと思いたくない。
自分は確実で正しく、立派な個人として生きているという証が欲しい。
その為に宗教は人間のアイデンティティー確立に利用され、宗教はハレやケガレ、正と邪、宇宙の法則といった様々なガラクタ価値観を作り上げる。

しかし実は、このガラクタ価値観が人間にアイデンティティーを与えることにより人間の苦しみを作り出す。
人間は自分のアイデンティティーを固守しようとするから。
自分は正しい、自分は宇宙の法則通りに生きているという立派な自己というアイデンティティーを守るために理論武装する。
そして、自分の理論武装と相対する価値観を探しては悪や敵と認定して攻撃する。
全ては自分のアイデンティティーを守るというエゴの欲望のために。
大石寺教義と板本尊真偽論の考察3 [無断転載禁止]©2ch.net
466 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/03/18(日) 12:13:19.84 ID:dXYMR31s
人間の本質とは、顕現しているときは宇宙であり、非顕現の時は無であり、それら有象無象を作り出す可能性。

この有象無象を作り出すポテンシャルはは、古来から神と呼ばれたり、仏と呼ばれたり、アラーと呼ばれたり、ブラフマンと呼ばれたり、
エホバと呼ばれたり、オームと呼ばれたり、南無妙法蓮華経と呼ばれたり、大日如来と呼ばれたり、南無阿弥陀仏と呼ばれたり、無分別知と呼ばれたりしてきた。

人間とは、肉体から離れた霊体の時はこれらと同一。
しかし、人間は肉体と同一化しているときは霊の働きが弱まり、これらの状態を忘れ生老病死に囚われた惨めな存在となる。

しかし、生老病死に囚われないと出来ないこともある。
それは個人の創造。
我々の本質である霊、あるいは仏性、あるいは神の子は、その本質であるときは一心同体であって全てであり、個人という個別の創造ができない。
個別や寿命という制限に囚われてこそ、個人という独立創造行為が可能になる。

我々地球民は、この個の創造行為を楽しむために地球に肉体を選んで転生する。
世の中に正しいことがあるなんて世迷い事も個の創造行為の一部。
自分は正しい、あいつは間違いというのは、お互い分離した生命という誤った価値観があって初めて創造可能。

しかし、この個の創造行為に没入しすぎると地球という個のステージに執着して本来の自分の性質を忘れてしまう。
自分は分離はなく全てと一体であるという、生命の全体性の性質を忘却してしまう。
この、自分を個人と思い込む執着が極限に行き着いた社会が末法の世の中。

悟りとは、この忘却から本来の自分を思い出させること。
そのためには、自分は個人だというアイデンティティーを捨てなければいけない。
この世に正邪があるだとか、宇宙のリズムがあるだとか、すべてのガラクタ価値観を捨てなければならない。
その邪魔をしているのが、残念ながら既成宗教なんだけどね。

逆説的になるが、全てを捨て去った時に初めて全体としての自分を思い出す。
大石寺教義と板本尊真偽論の考察3 [無断転載禁止]©2ch.net
468 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/03/18(日) 14:14:03.58 ID:dXYMR31s
>>467
なんかわけわからんな、
なんの証明が欲しいの?

>法華経も大日経もしょせん釈迦が説いたもんじゃないぞ

これ、私のレスじゃないけど。

自分の立場を述べておくと、法華経にしても大日経にしても聖書にしても各種成典は、この世という主観的ホログラム世界を霊的という生命の全一的な見地から捉えようとした労作という評価。

ただ、あくまでそれらは作成者の解釈に基づくものであり、絶対真実として扱うべきものではない。
高次の覚者が己の悟りに基づき、全一の生命を解き明かした極めて参考になる貴重な資料。


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