トップページ > 創価・公明 > 2018年02月23日 > 7hFUEchw

書き込み順位&時間帯一覧

25 位/89 ID中時間01234567891011121314151617181920212223Total
書き込み数0000000000000000010101003



使用した名前一覧書き込んだスレッド一覧
名無しさん@お腹いっぱい。
大石寺教義と板本尊真偽論の考察3 [無断転載禁止]©2ch.net

書き込みレス一覧

大石寺教義と板本尊真偽論の考察3 [無断転載禁止]©2ch.net
400 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/02/23(金) 17:41:55.85 ID:7hFUEchw
つーか、紙切れに真贋議論を持ち込むこと自体がカルトでしょ。
本尊もトイレットペーパーも本質的な部分は変わらない。
あらゆるものは諸行無常の法則に則って、変化、朽ち続けていつか必ず崩壊する。
常住なものは存在しないのに、板や紙を神聖化するから盲信カルトになる。

象徴としての本尊だったら意味は分かる。
紙切れや板切れを「全世界の恒久平和のために与えられた唯一無二の正しい本尊」と絶対化する行為は、創価や正宗が否定する一神教と同レベルだけどね。
大石寺教義と板本尊真偽論の考察3 [無断転載禁止]©2ch.net
402 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/02/23(金) 19:38:52.47 ID:7hFUEchw
>>401
399読んでごらん。
自分は、シンパ、アンチ、批判、パターン何でもありでいいと思う。
なぜなら正解は無いから。

正解はないけど、物事にはいろんな見方が有る。
その見方は千人いれば千通りあって、その人にとってはそれぞれが仮の真実。

創価や正宗やカルトに欠けているのは、この
「物事とは全て、必ずある限定された解釈から見た側面に過ぎない」
「だから、物事とは全て解釈から発生するものであり、何事も客観的に完全に把握することはできない」
「物事に対する偽や正の判定も、ある側面からの解釈を逃れることがで来ず、客観的、絶対的な偽や正は存在しない」

物事とは、ある差異や関係性に人間が価値を与えて初めて意味を持つ。
人間によるある対象への意味付与が、物象化を起こして初めて物や事という認識対象となる。
人間が意味付与を行わないものは、物象化や事(こと)化が起きない。
よって、人間が意味を与えないものは認識対象とはならない。存在しても意味が与えられないものは人間にとって非存在となる。

創価や日蓮や正宗が意味を与えないものは、存在しても存在しない。
世間的にはどうでもいい紙切れや板切れやお経や振る舞いに創価や日蓮や正宗が意味を与えれば、それらは本物や偽やインチキや正義という物化、事化が起こり、創価や正宗にのみ限定的に意味を持って現れる。

宗教の役目とは、無である事象に意味を付与して正義や悪や神聖を作り出す人間という生命現象を分析すること。

しかし、創価や日蓮や正宗がやってることは、全ての物化、事化を生み出す人間という生命現象を突き詰めない。
創価や日蓮や正宗は、自分達が好き勝手に意味付けして物象化した本尊や教義という幻想をリアルと勘違いして、本物だ偽だという議論をしている。
創価や日蓮や正宗は、本物や偽物という幻想を作り出す原因を調べようとせず、幻想を真実だと思い込んで幻想の中で争いを永久に続けているのだ。
大石寺教義と板本尊真偽論の考察3 [無断転載禁止]©2ch.net
404 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/02/23(金) 21:22:12.45 ID:7hFUEchw
創価っていう宗教の強みは、唯一神的な特定な信仰対象を持ってるわけじゃないところ。

創価が絶対とする物ってなに?
日蓮? 日寛本尊? 弘安二年の大御本尊? 池田? 牧口? 戸田? 御書? 人間革命? 法華経? 釈迦? 南無妙法蓮華経? 師弟不二?

創価って、他の宗教と比べると絶対化されているものが多すぎる。
それでいてどれを一番大切にしたらいいのか凄い曖昧。
釈迦を絶対視していたかと思えば、別の視点では迹仏。
大御本尊を絶対視していたかと思えば、今では会員の信仰対象から外す。
一人立てや長の一念と指導しながら、長のはずの池田はどこに居てどこに立ってるんだよ?

創価学会員の信じているものっていうのは、実は特定の物や人物ではなくて「正しい、真実」という曖昧なイメージを付与出来るものならなんでもいいだよな。
だから教義も会則もコロコロ変わるし、正宗の扱いもコロコロ変わるし、人間革命の内容もコロコロ変わし、池田の扱いもコロコロ変わる。

ナゼ変えるかといったら、正義や悪というものはあくまで人間が主観で作った仮の体型でしかないので、時代や場所によって正義や悪の概念が変わってしまうから。
よって、創価は時代や場所ごとに変化する正義や悪の概念に合わせて、創価の教義や経典や師匠解釈を変更する。
創価や正宗が主張するような絶対正義や絶対悪は存在しない。
でも、創価や正宗にとっては、絶対正義や絶対悪を必要とする信者が客だ。
創価はよりカッコいい絶対正義商品をリニューアルし続けて、信者に買わせ続けなければならない。
創価は、会員が喜ぶ絶対悪をやっつけるヒーロー物語を創出し続けるために、時代や場所に合わせて正義や悪の解釈をコロコロ変える、いや、企業努力として最適に変更する。

一方で、正宗は老舗だから、いや正義や悪の解釈を時代や場所に合わせて最適に変更する能力に劣っているから、創価のような教義変更ができず、ワンパターンな創価批判を続ける以外に能がない。


※このページは、『2ちゃんねる』の書き込みを基に自動生成したものです。オリジナルはリンク先の2ちゃんねるの書き込みです。
※このサイトでオリジナルの書き込みについては対応できません。
※何か問題のある場合はメールをしてください。対応します。