- 2世・3世が学会のおかしさに気がついたこと12 [転載禁止]©2ch.net
886 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2015/11/21(土) 19:28:45.91 ID:3t0FtVBx - >>862
亀レスすまん。 実のところをいうと、無思考という言葉の意味として誤解の危険性を感じたのは創価よりも824の法の華の「頭をとれ」。 このスレ的にはスレ違いになるかもしれないが、議論が進んでいるのでお許しを。 福永が使った頭の修行は、厳密にいうと思考停止ではない。 福永の「頭をとれ」という修行方法は、福永のオリジナルではなく古くからある瞑想や禅のイメージングのパクり。 福永はそれをパクって、自分に都合のよい意味合いに変化させて教義として取り込んだ。 信者を無我というか、無思考というか、とにかく信者の頭を真っ白にさせて自分に従わせようとした。 しかし、オリジナルの「頭をとれ」はそんな浅はかなものではなく、精神的な覚醒に至る修行方法。 古くからある頭をとるという瞑想法は、自分の頭がなくなった、つまり首から上が無い状態を想起して日常生活を送るというもの。 これはどういうことかと言ったら、頭脳の象徴である思考を停止させて、純粋意識のみで生活するということ。 純粋意識とは、例えれば頭脳の働きがまだ見活性な赤子のような状態。 知識や言語という、自分と世界を区別し分けることを覚える前の状態であるから、自分と世界が未分化の状態にあるということ。 赤子というのは、自分と世界との分離を殆んど感じていない。 赤子は思考の影響を受けない意識で、総てを純粋に自分と他という区別なくありのままの自分と一体化した現象として感じている。 頭をとる修行というオリジナルは、思考を停止させて、梵と我が未分の個の意識と仏の意識のが一体化した純粋意識の状態を得ようというもの。 頭が無い自分をイメージして生活を送る ↓ 思考停止 ↓ 個と宇宙が未分、個と宇宙の意識が渾然一体となった状態、つまり純粋意識 であり梵我一如の境地の仮体験を得られるきっかけとなる。 個人的には、この頭を無くすイメージ瞑想法が、福永のパクりによって意味がねじ曲げられて、浅はかな修行と解されるようになってしまったのが残念。
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