- 創価学会 教義の改正(2014) [転載禁止]©2ch.net
906 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/12/07(日) 00:54:33.24 ID:I9DJ/QnD - >>903
ざっと見てみると、 ・「旧教」では、 12使徒(キリスト直弟子で復活の証人にして初代教会の宣教)権威正統継承を 自任しつつも、伝承や他教起源の教えもあり(マリヤ信仰/彫像多用など)マリヤ、 聖人、司教を仲介者とする秘蹟(儀式)を通して神とキリストに近づく「行い」も 必要とされるが、 「新教」ではこれらはまったくなく、 ・「旧教」では、 聖餐式(キリストが与えたとされるぶどう酒とパンの儀式)は救いの「実質」 であり、それが故に教会組織が一つの正統教会のみによって継承される意味が 実質的に必要となり、 一方「新教」では、儀式はすべて記念として忘れないようにするための「象徴」。 ・聖書を根本としながら、キリストを贖罪の子羊とし三位一体の神を信じることは、 「旧教」「新教」とも同じだが、 「新教」では基本的に「聖書のみ」に立って「信仰のみ」によって救われると強調、 「旧教」ではそれ以外に上記のような教会組織の実体と儀式の実質性を信仰する ということのようで、信仰内容に中核的な共有要素がありながら、 A.「旧教」は、教会組織と執行儀式に「救いの実体性と実質性」を主張している B.「新教」は、根本聖典だけに依拠することを標榜し、原理主義化もしやすい C.「旧教」は当初から根本聖典にはない他教由来の伝承的信仰も取り入れていた ということのようで、>>903さんの見方でおよそ正しいようです。ただし、これと 比較すると正宗と創価学会の比較は全く同じパターンとは言えないようです。
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907 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/12/07(日) 01:14:47.03 ID:I9DJ/QnD - >>906(つづき)
正宗と創価学会の比較では、 A.B.ともに正宗的であり、 一方、創価学会は、>>900の(1)のように「組織」自体が「教宣の正当性」の根拠 を占有すると主張しつつ(その点がカルト性をもたらすが)、 しかしC.の点では、>>900の(2)のように、「原理主義的」というより、 時代時代に合わせ、根本聖典そのものではなく「正統を自任する組織が適宜教義を 改変する権威を先験的に有している」と主張しているところが、キリスト教での 「旧教」とも「新教」とも全く異なる点ではないでしょうか?? >>772と>>776の点が、ここでどれだけ精緻に検討できるかも問われてくるものと 思います。 >>882-883さんには、この辺も抑えた上で>>807-809についてご返答をいただける かもしれません。よろしければどうでしょうか。
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938 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/12/07(日) 22:13:53.96 ID:I9DJ/QnD - >>909
>>899-901>>906-907の件ですが、 >基本的に日蓮大聖人の仏法を信じてないんだよ。宗祖の教えをゆがめても構わない としているのに気が付いていないことになる。大幹部周辺の人間だとしたら・・・ ああ堕落もここまで来たか!という感じだ。議論も何もない!根本を忘れて議論も 何もないだろーよ! についてはご懸念については理解していて、そうしたご心配もあり得るものと 思っています。>>806-809において>>800にも言及していましたので、当然それも テーマの中に含まれる問題として認識しており、 >>900の(1)の、「組織」自体が「教宣の正当性」の根拠をどう主張できるか の検討が行われるべきものとの流れで議論される必要があるものと考えます。 ですので、その辺でもどしどし意見が交わされることが想定されているという ことなのです。
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939 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/12/07(日) 22:42:34.35 ID:I9DJ/QnD - >>924-929
この指摘されている内容は、 >日蓮の御書をマジでリアルなものとして信じる 、か >一つの物語として参考にとどめるか、その違いだろうと思います と要約されていて、これは、根本聖典の原理主義的受け止めのテーマにもなり、 キリスト教の旧教と新教の比較でも文書の内容ごとに解釈の次元がそれぞれで 違っているようで、 正宗と創価学会の比較では、>>906-907の「A.B.ともに正宗的」で言及して いましたが、A.では>>808のように「開眼供養」などのありなしにも現れている などですが、こういった理解で妥当でしょうか。 先の>>909さんの件では、創価学会では時代時代の”雰囲気”のようなものに鑑みて、 有力な教団の人間集団組織に先験的(アプリオリ)に与えられているであろうところの ”教宣における権威”によって、 >(開祖の遺志を)一つの物語として参考に(して、それを解釈した内容を 時代時代にあって何らかの検討を経た上で、自在に”再表現”して) 新たに叙述し規定して宣言し、またそれによって自在に信徒に指導することが可能 という立場の是非、それが可能か不可能か、また適切か不適切か、また客観的にも 容認可能か不可能か、といったことが検討されるべきということになりますよね。
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940 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/12/07(日) 22:59:59.96 ID:I9DJ/QnD - >>939(つづき)
そういった教理の改変などについては、この件を先のキリスト教の「旧教」と「新教」 の関係で言及すれば、>>907のようにそのどちらにあっても、「基本的には行われない」 ものと考えられ、基本教理や儀式の意味などの聖典解釈も含めてその教団の存在と同時に 最初に規定されたらそのまま継続するのが原則かと思われますが、 しかし例えば、啓蒙主義以前と以後での、物理的世界に対する世界観などの教理反映の ような点では、過去の間違いの修正、といった形ではあるようです。 旧教の側がガリレオへの弾圧を謝罪したなどは時に教皇庁がコメントとして述べたり しているのがそれで、しかしそれは「時代に合わせて基本教理を変更している」 というよりも「過去のあり方への自己批判」という形ではないかと。 なので、今回の創価学会の「ご本尊の変更」というような「教義のメジャー・チェンジ」 ではない、という理解になります。本件ふくめご異論その他何でもご意見などが あればどうぞお願います。
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