- 創価学会 教義の改正(2014) [転載禁止]©2ch.net
421 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/11/24(月) 00:27:29.84 ID:6+gPjNQv - >>387
君は創価学会員の洗脳例というか、カルトや自己啓発に引っ掛かる典型的なタイプで分かりやすいよ。 人生というものを発展志向、己克思考で捉えている。 言い替えれば、負けたら終わりだと思わせられている。 常に脱落したり生存競争に負ける恐怖を抱いていて、脱落したり負けないように戦い続けなければならないと思っている。 まぁ、それが世の常識で、それを理想とするように教育されているのだから仕方がないけど。 だから、創価や自己啓発の「人間革命」とか「難に打ち勝つ」とか、「決意と行動」「自己肯定、自己賛美」とかが現代人にはもてはやされる。 確かに人生は山あり谷ありに見えてしまうから、そんな風に常に勝ち負け感覚で何かと格闘しなければと思いこんでしまう。 創価に「心こそ大切なれ」ってあるけど、山あり谷ありに見える人生の中で精神の安定を図るには、自分の精神状態をコントロール出来なければならない。 その精神状態をコントロールする材料として参考になるのが創価や自己啓発の教え。 ここまではごく普通のことなんだけど、問題はこれは究極的には宗教的なことではなくて、表面的な精神コントロールにすぎないこと。 創価はこの表面的な精神コントロールを「人間革命」や「宿命転換」と呼んだりするけど、これこそは創価学会が 宗教や悟りの究極的な内容を理解していないことの証明。 難しいけど、なんとかその理由を説明したいと思う。 小結論を並べて最後に結論に導きたい。 ・人生の勝ち負けなんてのは人間の心が作り出してるものであって、勝ち負けなんて無い。 ・純粋にあるのはただの生命活動であり、その生命活動に色々と定義付けをするのが「自我」の特徴。 ※自我はエゴとも置き換えられる。 例えば、様々な生命活動の局面において「こういうことをしている俺はかっこいい」とか「こういう自分はみっともない」とか自我は定義付けをする。
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422 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/11/24(月) 00:28:52.98 ID:6+gPjNQv - ・まずやらなければならないことは、このように生命活動の様々な局面において生じる事態にいちいち定義付けを行う「自我」という存在に気づくということ。
例えば「感謝出来ない俺はなんてダメなんだろう」「性格悪い先輩をどうしても尊敬出来ない。俺は後輩として失格だ」「着任に行きたくない。 これは魔の働きだ」等と「自我」が様々な局面において自分の行動に様々な定義付けを行っている。 この定義付け活動の繰り返しが性格を形成する。 ・発展志向や己克心を生じさせるのはこの「自我」の働きのせい。 なぜなら、「自我」が理想の自分像を作り出して、理想の自分に実際の自分が当てはまらないと「自我」がダメ出しをするから。 例えば、学級委員長に立候補したけど選ばれなかった。そんな惨めな自分を受け入れられくてショック。 みんなから尊敬されるように自分を変えなければ。 ・「自我」は、理想の自分を作り出すために様々なアイテムを身に付けようとする。 例えば、かっこいい自分を作り出すために流行の髪型にしたり、女性に持てる車に乗ったり、組織内で立派な立場を追い求めたり、 羨ましがられる年収を稼いだり、それらは創価や自己啓発の場で、決意発表する内容に具体的に現れるな。「今までの自分は間違っていましたー、こう変わります」てな感じで。 ・この「自我」は、実は生命の根本部分ではなく、生命活動のごく一部分でしかない。 仏教の九識論では六識の意識と呼ばれる部分。 創価学会は学会活動の仏道修行で八識、九識を開発出来るとしているが、創価の活動は六識の意識止まり。 創価は九識論を理解できていない。 理由は読み進めてもらえればわかると思う。 ・「自我」の働きを常に観察し続けられるようになると、勝ち負けにこだわったり、理想の自分を追いかけている自分の状態が、実は本質でないことに気づいてくる。 なぜなら、「自我」を観察する別の意識に気づいてくるから。 その「自我」を観察する意識から見れば、人生を山あり谷ありに見立てていたことは「自我」が作り出したことであり、山や谷は自分の心が現出していたことに、山や谷は幻想であったことに気づく。 これは九識論で言うなら七識辺りかもしれない。
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423 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/11/24(月) 00:29:24.94 ID:6+gPjNQv - ・自我の上の意識にたって見ると、自我の分別作業が自分という個を現出させていることに気づき、個は個人としては成り立たない、生命どうしの関係性で成り立つプロセスに気づきます。
例えば、身長が低い自分ってのは、自分より身長が高い人がいるからそう自分を定義付けられる。 優しい自分というのは、自分より性格のきつい人がいるからそう自分を定義付けられる。 勝者としての自分は、ある基準により敗者が生じるからそう自分を定義付けられる。 そんな感じで、人間はあらゆることに他との比較から定義付けを行う。これが分別。 「自我」は自分が気づく範囲で他の生命との比較から自己のあらゆる定義付けを行い「自分とはこういうものだ」という自分を作り上げる。 つまり個人。 だけど、その比較ってのは自分と切り離した生命がないと成り立たない。 つまり関係性。 仏教では縁起と呼ばれたりしますね。 こういう感じで自分を自分あらしめているのは、生命の関係性の中で自我が他との比較作業を行うからです。 つまり個というには幻なんですよ。 個は個では成り立たない。あらゆる生命との関係性から成り立っている。 それに気づくと、つまり自我の働きが揺らいでくると、自分と他との境界が薄くなってくる。 生命活動とは個人の働きではなくもっと大きい範囲で働いていることに気づいてくる。 分別という幻、その幻に左右され続けていて、自分を自分だと思いこんでいた、その幻の自分が目の前に常に難があると思いこんでいた、幻の自分があらゆることに勝利を求めていたことに可笑しくなってくる。 なぜなら全ては生命の関係性による一時的に現出した幻だから。 その幻を信じていた自分が可笑しくてしょうがない。 拈華微笑《ねんげみしょう》・とはこういう感覚のもっと進んだ優れたものかもしれません。
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424 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/11/24(月) 00:30:34.72 ID:6+gPjNQv - ・生命の関係性に気づくようになると、他があって自分の存在が成り立ちますから、生命を個としてではなく全体として見なすようになります。
宗教の修行とは、悟りとはここから先の「自我」を消滅させる為の行為です。 なぜなら我と他という分別を生じさせているのが「自我」だからです。 自我が脱落して個が生命の全体 に回帰するのが悟りです。 この「自我」を最終的に脱落させる方法が、座禅であったり瞑想です。 これ等は、形としては山にこもったりするかもしれませんが、個という幻を打ち破る「自我」との対決というとても厳しい内容です。 創価の生命の関係性を見抜けない表面的な勝った負けたの修行など、悟りに至る本当の修行の厳しさとは質が違いすぎて、比べるだけでも失礼だ。 創価は悟りという状態に対して世直しとは関係ない自己満足という解釈をしますが、仏教の本質を全く理解できていない。 悟りとは生命の関係性から現実という幻の見抜き、そこに生命の比較の戯れが織り成す世界の現出という奇跡を常に見いだします。 そうなると、生も歓喜、死も歓喜、悪も正も生命の性質のうちにあり、世直しもその幻の中の一局面でしかないことに気づきます。 そんななかで個という性質を与えられて世界を観察出来る自分と、その個の生命の総体である名付けることが出来ない宇宙そのものの存在との一体融合を体験します。 キリストの神人合一や釈迦の涅槃寂静はこの状態かもしれません。 偉そうなことを書きながら私は悟りの本質を充分理解できていませんが、種明かしをするなら、生命全ては悟りを開いています。 なぜならそれが生命の本質だからです。 悟りを閉じる経験をしなければ悟りを開く経験は出来ません。 迷いを経なければ、見性というゴールを体験できません。 この世は、神が個という自分を偽った分割した形で地球というステージに現出させたものです。 なぜならそうしないと、自分自身の存在を表現出来ないからです。 全体は全体のままでは表現活動は出来ない。 個という形の集合によって、全体の性質をあらゆる側面からバラエティー豊かに表現しつくす可能性が生じます。 このバラエティー豊かな全体表現が神の法悦であり、我々個はその助力者であり、神が自分自身の性質を味わい尽くすための永遠の過程です。
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- 本部幹部会はつまらない 第13回
947 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/11/24(月) 14:12:25.52 ID:6+gPjNQv - 素人勘繰りでしかないが、配達員の負担減のために近い将来「聖教配達を朝日に委託する」、なんてことはないのかな?
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- 本部幹部会はつまらない 第13回
949 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/11/24(月) 14:33:05.76 ID:6+gPjNQv - >>948
建前はそうだけど、もうなり手がいなくて配達が罰ゲームになっているのが現状でしょ。 俺んところはブロック員の負担が公平になるように順番で配達担当を交代するようにしてるけど、いくら配達の 功徳の話が出ても自分の順番が回ってくるのが憂鬱で嫌々やってるのがまるわかり。 集金の大変さはまったくだ。 俺自身アパートにいる機会が少ないから、集金の人には迷惑かけてる。 俺が啓蒙した先の友人が新聞代を払わなくて、紹介者の俺のところに相談の連絡が来たりとかもある。 朝日に委託すれば、朝日の配達と集金業務と同時に聖教の配達と集金を重ねられるわけで、業務効率としては大変いいと思ってはいた。
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- 本部幹部会はつまらない 第13回
953 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/11/24(月) 17:52:36.74 ID:6+gPjNQv - 126 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/11/24(月) 10:48:08.28 ID:2V9i2AsF
ヤングの婦人部を、人材不足だからと言って働かせない様にするのは間違ってる。 昼間の会合の拠点がないからと言って、また新聞の配達員がいないからと言って、 「この信心で福運つけたら、働きに行く以上の結果となって帰ってくる・・www 」と洗脳して働かせない。 あほか! これで電気代など払えず、何度も止まり、挙句の果て離婚となった悲惨な一家があった。 当時、旦那も地区リーダーから部長へと上がるほどバリ活で、がんばってたwww
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