- 日蓮って ver.30
185 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/10/26(日) 07:40:13.08 ID:fW2hqhol - >>180
山椒島さん、「私と同程度のものでも、傍証程度でも、何かソースを提示していただいた上で」と仰られても、そもそも山椒島さんが 出してこられたものが、いったい何についてのソースで、何の傍証たりうると山椒島さんが考えておられるのか私の頭では理解不能です。 山椒島さんが「仏法寺出土の柿経につき、複数のサイトで『忍性の祈祷のもの』と推定 or 断定されているようですが、その過程と理由の 一端がお分かりになるかと思います。」(159)を受けて、私が当該サイトを見るとそんな記述は全くない。そこで私が160で改めてその旨を お伝えすると、今度は165で「地域情報サイト」と言いながら、個人の観光案内人の「もちださん」のブログが出てきた。たしかにこの人は 柿経が忍性のものと確かめられたと「断定or推定」してはいるが何の根拠もない。おまけにこの人は日蓮の「袈裟掛けの松」を「笠掛けの松」と 間違えるほどの物識りさんです。しかし私はこの人を批判するつもりは毛頭ない。観光案内なのですから、色々なエピソードを紹介して、 ある程度「話を盛る」のはむしろ付近を散策する人々の楽しみに資することでしょう。日本で地方の温泉や名勝などを旅行すれば歴史的に 著名な人物、特に名僧、わけても弘法大師にまつわる伝承がやたらに多い。杖で叩いたら温泉が湧き出したその他です。その種の伝承は たいてい観光案内にも書いてありますが、これも同じことです。そういう観光案内の話を寄せ集めて弘法大師が諸国を漫遊していたという説 のソースや傍証になると考えるなら、それは馬鹿でしょう。そんなものは何のソースにも傍証にもなりません。まずこのことを確認したいと思います。
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186 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/10/26(日) 08:19:43.62 ID:fW2hqhol - 185の続き
そもそも山椒島さんが159で「仏法寺出土の柿経が忍性のものとする説の過程と理由の一端がお分かりになるかと思います。」という、 WEB版有鄰の座談会「鎌倉の廃寺を語る」のサイトを子細に見れば、この出席者たちは「忍性が祈雨の祈祷をした」というにことついてすら、 誰一人として断定的に語ってはいません。 福田:それと、池の中から帯状に堆積した柿経[こけらきょう]がたくさん出てきました。 この池は、忍性が雨乞いをやったという池だろうということで、 出てきたものを見たら、全部法華経なんです。 つまり「この池は忍性が雨乞いをやったという池だろうということで」と、忍性が雨乞いをやったというのは伝聞(やったという)とされ、その池であることは 推定(だろう)とされています。これは言い直すと「忍性が雨乞いをやったという伝承があるが、その伝承で言うのはこの池だろう」という意味です。 これが先入観をもって読めば、「この池は忍性が雨乞いをやった池だから、、柿経も忍性のやったことだろう」という推定に改変されるのです。 またこれを受けて 西岡:以前、日蓮と忍性の雨乞い合戦の話を、私は後世につくられた伝説かもしれないと言いましたら、日蓮宗のお坊さんから、日蓮の伝記の中では 大変なハイライトなので、それが架空のことでは困るんだけどと言われました。 (中略)最近、称名寺から江戸時代に流れた古文書を集めた本の写本を 見ていましたら、幕府か北条氏かはわからないんですが、今度雨乞いをやってくれと頼んだ文書が入っていました。 それで、なるほどそういうことは 実際にあり得るのか。 対象が、本当に名も知られないお坊さんかどうかは別として、幕府か北条氏が主催する雨乞いはあったんだなということはわかりました。 とここでも「あった」とされているのは幕府化北条氏かが僧侶に雨乞いを依頼するという事例が「あった」ということだけです。忍性の祈雨祈祷には半信半疑です。
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187 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/10/26(日) 09:38:38.84 ID:fW2hqhol - 186の続き
186であげた西岡という人は金沢文庫の学芸員でくだんの仏法時跡の発掘者でもあります。山椒島さんが電話をしたところの学芸員です。 また上の福田氏は186の引用に続けて、仏法時跡の柿経はまだ一部で残りはこの座談会時点で未発掘であること、同様の柿経は 建長寺からも発掘例があることに言及しています。これを見ても柿経は忍性の祈雨祈祷と関係づけることが不自然であるとわかります。 また柿経そのものが追善供養や罪障消滅を目的とするものであったというのは検索すればいくらでも出てきます。ちなみに山椒島さんが、 150で挙げた「奈良市埋蔵文化財調査センター紀要 柿経の考察 一分類と編年について一 奈良市教育委員会 」の論文には、 「柿経の製作目的は、一つには死者への追善供養のためであるが、この他にも生前に後生安楽を願って逆修業として製作されたこともある。」 とされちます。他にも、 「【こけら経】 薄い木の板(柿=こけら)に写経することにより故人の追善供養や本人の後生安楽などを祈るもの。寺院に 奉納されたり川に流されたりした。」(静岡県埋蔵文化財センター) 「『こけら経』とは、薄い板材(こけら)に経典を墨書したものです。お寺に奉納されたものが数例ありますが、ほとんどが遺跡らの出土品です。 平安時代末期(12世紀)に近畿地方で発生したと考えられます。供養などのために写経され、通常20枚〜40枚程度をひと組にして、 紙縒や紐でしばって納めたようです。川やこより堀、溝、池など水に関する遺構から出土する例が多いものです。」 (公益財団法人滋賀県文化財保護協会) 「杮(こけら)経 幅1p、長さ28cm、厚さ0.5mmの檜(ヒノキ)の薄い板に、お経を書き写したもの。写経と同様に一枚につき1行17文字を書き、 20枚を紐で束ねて整理番号が付けられている。数人の手によって書かれる。死者の追善供養や本人の後生安楽を祈願して行われ、 お寺に奉納される場合や川に流される場合がある。」(徳島県立埋蔵文化財総合センター) 他いくらでもでてきます。
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