- 日蓮って ver.30
181 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/10/26(日) 01:50:04.94 ID:4gBa4Tcw - >>165 続き
私の解釈 日蓮以降の本質的で致命的な誤謬−13 さてこれでおしまいにしなければならないが、なぜこのようなことを説明しなければ ならなかったか?? >この場合の中間の<お題目唱え>の部分は、実は「本質」への入り口の準備に なっていたのだ。何の「本質」であろうか、また何の「準備運動」だっただろうか? >「準備運動」を本体と考えるべき必然性が本当はないことへの正しい認識が、 先の *29 の注記に伴って徐々に得られる下地とならなければならない。そこに答え がある。そうして、帰るべき「仏道」の本質と真実への回帰と迷妄からの卒業が 実現するのだ。皆さんはこれからそこを極めなければならない 現状、日蓮宗ではすでに公認し一般化されている、 http://kotokuji.jp/event.html 南無手帳 http://books.google.co.jp/books?id=-Jy933b3iWYC&printsec=frontcover&hl=ja#v=onepage&q&f=false この「浄心行」や「深信行」と呼ばれるプロセスで「お題目唱え」の部分を挟んだ 構成 > 浄心行(姿勢を正し呼吸を整え)正唱行(お題目唱え)深信行(静かに瞑目) にすることで当時の大僧正氏は何を<実現しないといけない>と考えたのかを よくよく理解、認識しなければならない! http://books.google.co.jp/books/about/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C%E4%BF%A1%E8%A1%8C%E8%A6%81%E6%96%87.html?id=0NSzMQAACAAJ&redir_esc=y
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182 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/10/26(日) 01:57:05.68 ID:4gBa4Tcw - >>181 続き
私の解釈 日蓮以降の本質的で致命的な誤謬−14 あるお寺ではこの行法を「お題目唱え」の部分を『日蓮ならではの<方便>』で 覆ってはいるものの、しかしそれでも仏教の原点に近づけようとする努力が見られる。 http://www.ryujukai.com/%E5%94%B1%E9%A1%8C%E8%A1%8C/ >この「唱題行」は、2500年前、お釈迦様がインドのブッダガヤにおいてお悟り をお開きになられた「お姿」「呼吸」「境地」を、末法に生きる私たちが、時間、空間 を越えて、私たち自身の内面に再現するための修行法 >「唱題行」の原型は、中国隋時代の高僧、天台智者大師が著された「摩訶止観」の 理念とその具体的行法である「天台小止観」にありますが、この原型に日蓮大聖人の ご教示、「妙法五字の光明に照らされて本有(ほんぬ)の尊形(そんぎょう)となる ー日女御前御返事」の境地が加わり、さらに湯川日淳上人の長年の修行と工夫によって 出来あがったのが「唱題行」 そして挟んだ2つの両プロセスにそれなりの時間配分をしていた。 >唱題行の行じ方 1、礼拝 ◎道場偈 ◎三宝礼 《5分》 2、浄心行(身心を調和する最善の行法または健康法)《10分》禅定 3、正唱行(仏力、法力、信力、感応の信心行) 《30分》唱題 4、深心行(黙坐瞑目して妙益を念ずる) 《10分》禅定 5、祈願行(平和幸福の祈りと霊界への回向) 《5分》 6、誓願行 ◎四弘誓願 ◎帰依 7、礼拝
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183 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/10/26(日) 02:08:25.92 ID:4gBa4Tcw - >>182 続き
私の解釈 日蓮以降の本質的で致命的な誤謬−15 『この行法を「お題目唱え」の部分を日蓮ならではの<方便>で覆ってはいる』 と言ったのは、すでにおわかりの通りとは思われるが、再度言うなら、 http://www.genshu.gr.jp/DPJ/booklet/001/001_02.htm この中の *29 の注記(>>162)であり、そこに>>138-140の意味が理解可能 であり「お題目」もその効果も本質的において「仏教」とは直接的な関係性は 主張できないものだとわかるだろうということである。 つまりそれが、>>164開祖の認識や理解や解釈にはなかった真実に「啓蒙主義」 の洗礼を受けた近代以降の知性によって初めて到達した「中世的迷妄」からの 脱却である。 つまり「お題目唱え」の部分の効能とは、単純に本来の仏道修行の補助的な 準備運動として捉えるべきもの、「調息」や「調心」のための工夫の一例として 認識されるべきものであっただろう。 それが身体的、精神身体医学的な健康に寄与する事実はあってもそれが仏教の 功徳や奇跡という受け止めをすることは、単に「信仰の自由」ではあっても、 それを信じなければ地獄に落ちるなどの脅迫的切迫を以って現代に教宣することは <カルトを生む原因>とはなっても、 真実や仏教の正しいあり方を否定することにつながると思い知るべきではないか。
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184 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/10/26(日) 02:20:11.16 ID:4gBa4Tcw - >>183 続き
私の解釈 日蓮以降の本質的で致命的な誤謬−16 中世における情報の取得可能限界、知的水準の限界に拠るところの、当時の 日蓮的認識から脱して、それを『日蓮ならではの<方便>』に過ぎなかったのだ、 と正しく現代的に理解するべき時が来ているのではないか? それは、現代の創価学会を含む教祖崇拝にまで繋げて政治経済的勢力を形成して しまったカルトはもちろんながらでえあるが、日蓮後の法華系宗派のすべてに対する 根本的なアンチテーゼとなってしまうのは確かである。 しかしこうした理解は、確実に<論理的な結論>となるのだ。 現代の日蓮宗も、この行法スタイルを、あたかも開祖日蓮が最初から示した行法 であるかのような誤解を抱かせないよう、それが「現代の改善による」成果である と、正しく説明を付さねばならない。 そうしなければ、今後もまだまだ欺瞞の種を生むかもしれないからだ。創価学会 などのカルトが生まれる素地は、日蓮的認識にこそ、元々実際に存在していたから にほかならない。 確かに、これは「信仰」というものの本質に関わり、特に日本仏教日本への根底 からの問い直しを迫る課題だろう。しかし我々はあくまでも真理に迫らなければ ならず、それが現代以降も「正しくある」ために必要だからである。 ひとまずここまでです。ではまたです。(了)
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