トップページ > 創価・公明 > 2014年10月25日 > LogMlDiH

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名無しさん@お腹いっぱい。
日蓮って ver.30

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日蓮って ver.30
162 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/10/25(土) 01:32:12.96 ID:LogMlDiH
>>155 続き 訂正失礼
>そこで>>142の件である → そこで>>141の件である
>解釈されただけで正解ではないだ → 解釈されただけで正解ではないが

私の解釈 日蓮以降の本質的で致命的な誤謬−9

そこで解答である。<ヒント1,2>を日蓮宗の管首氏の言に求めたので、<解答>
への入り口も日蓮宗自身の研究者から頂けるらしいことが判明したためそうしたい。

>>138-140で当方が述べたことの入り口は、次の研究論文を一通り読むと納得できる。
その具体的要領も「浄心行」や「深信行」と呼ばれるプロセスで「お題目唱え」の部分
を挟んで構成されるこの「行法」を、精神身体医学的療法の一つとして解説している
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/booklet/001/001_02.htm

この中の *29 の注記を読めば、まさにそこに>>138-140の意味は当然理解可能であり
「お題目」もその効果も、本質的において「仏教」とは直接関係は主張できないもの
だとわかる。

>*29 ・・・しかしながら、文献学的な批判など近代仏教学の学的成果によって、
今までお経文は全てお釈迦さまのお言葉(仏説)であるとして信仰を支えていた根拠、
たとえば「『法華経』はお釈迦様の言葉であるから全てが真実である」などの宗教思想
の根幹が崩れさってしまったために、その三証という価値基準「燃えているところには
火がある・・現証(現量)、煙がたち昇っているところには火があるだろう・・理証
(比量)、あそこには火があったという聖者の言葉・・文証(聖言量)」、とくに三証
の中でも最も重きの置かれていた文証という経文の絶対的な価値すら理論的にも破綻
してしております。実際にはこんな理屈は誰も考えてないでしょうが、現代人には
「お経文は釈尊のお言葉であるから有り難いものだ!」という神話性はすでに崩壊して
おり、もはやその思想性、その宗教性の優劣を論ずる価値基準にはなり得なくなった
しまったことが上げられます(引用まで)
日蓮って ver.30
163 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/10/25(土) 01:33:52.51 ID:LogMlDiH
>>162 続き
私の解釈 日蓮以降の本質的で致命的な誤謬−10

さらに、日蓮が当時依拠した天台教説にもその根底がすでにあったことも記されている。
>『摩訶止観』、『天台小止観』で天台大師は、祈祷やマジナイによって「病など
が癒える効果(験)」を一種のプラシーボ効果であると考え、その救い(験)が
一時的な効果であって本質的なものではないと否定なされている

これは単に真言的呪術の否定だけではなく、日蓮的な<功徳>の不可思議奇跡解釈
をも実は否定していることになる。それは、第一に機械的で身体的な生理学的な
メカニズムに依存する、純粋に精神身体的効果による効能として受け取るべきこと
を現代の我々に訴えている。

さて、このヒントは、現在日蓮宗で行われている行法作法だったが、
作法 http://www5e.biglobe.ne.jp/~shinryu/sahou.htm

しかし、実は日蓮宗では昭和の時代になってから、同宗の湯川日淳大僧正という
ご僧侶が開発されて、その後に日蓮宗に広く普及したもので、それ以前には行われて
いなかったのだ。まずそこに注目すべきである!!

>唱題行
http://temple.nichiren.or.jp/6021056-myofuji/event/17/#!prettyPhoto
>日蓮宗の行学の大家とうたわれた湯川日淳大僧正の発願によって建立された唱題行の
http://shakahonji.jp/shakahonji.html
日蓮って ver.30
164 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/10/25(土) 01:41:10.81 ID:LogMlDiH
>>163 続き
私の解釈 日蓮以降の本質的で致命的な誤謬−11

つまり、これは少なくとも日蓮の時代にはなかった行法だった。

現代的知性による探求の結果、上記の論文のような理解、認識に至って初めて
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/booklet/001/001_02.htm
その本当の意味がようやく理解されるようになったと解さなけれならない。まだ日蓮宗
の人々にはそこまでの認識は普及してはいない。

これは、開祖の認識や理解や解釈にはなかった真実に、「啓蒙主義」の洗礼を受けた
近代以降の知性が初めて到達した「中世的迷妄」からの脱却であり、また本来的に
「仏教」と呼ばれるべきものへの再回帰に他ならない。

日蓮の抱いたであろう<迷妄>は、ようやく正しく解釈され正しく仏教に回帰し、
現代の知性もまたその<迷妄>から卒業する準備が得られたのだ。

しかし当然ながら、それは創価学会的な呪術的理解や欲望的汚辱でも、日蓮正宗的
な中世以前的の不可思議信仰への回帰でもない。

そうではなく本来的な「仏道」の本質への回帰である。
日蓮って ver.30
165 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/10/25(土) 01:50:42.88 ID:LogMlDiH
>>164 続き
私の解釈 日蓮以降の本質的で致命的な誤謬−12

「浄心行」や「深信行」と呼ばれるプロセスで「お題目唱え」の部分を挟んで構成
することで、当時の大僧正氏は何を<実現しないといけない>と考えたのだろうか。

(初心者の体験記)
浄心行(姿勢を正し呼吸を整え)正唱行(お題目唱え)深信行(静かに瞑目)
http://syukubo.com/spot/03kanto/chiba019.html
>姿勢が整ったら、次は合掌します。指先はぴたりと合わせ、呼吸を整えます。
ゆるく、深く、長く……。ゆっくりと息を吐き、同じように息を吸います
>にそのスピードがアップしてきます。15分ほどしてピークになってくると、
舌がもつれるほど早口です。息もだんだん上がってきて、苦しいんだか気持ち
いいんだか分からなくなり、軽くトランス状態に・・・
>最後は逆に、だんだんスピードがゆっくりになります。鐘の音を合図にお題目は
終了し、最後は深信行です。しばらくは考えることよりも感じることを大切に
しながら、瞑想状態を・・・
>唱題行を行ってみて感じたことは、座禅や写経などと比べて、あまりものを
考える余裕がないということです。とにかくついていくのに精一杯。それだけに
座禅や写経とは違ったアプローチから、心を空っぽにできそうな心地好さが・・・

この「改善型お題目唱え」は、先の *29 の注記を前提に解釈しなければならない。

この場合の中間の<お題目唱え>の部分は、実は「本質」への入り口の準備になって
いたのだ。何の「本質」であろうか、また何の「準備運動」だっただろうか?

そして「準備運動」を本体と考えるべき必然性が本当はないことへの正しい認識が、
先の *29 の注記に伴って徐々に得られる下地とならなければならない。そこに答え
がある。そうして、帰るべき「仏道」の本質と真実への回帰と、迷妄からの卒業が
実現するのだ。皆さんはこれからそこを極めなければならない。


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