- 日蓮って ver.30
134 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/10/22(水) 08:15:10.98 ID:/RdBBOmd - 133の続き
三戒壇については浅識どころかお詳しいです。ただ私は121で「日蓮当時は」と言いましたが、下野薬師寺はそれ以前に機能停止していたのです。 したがって日蓮当時は東大寺、筑前観世音寺、比叡山延暦寺の三か所だったのです。また叡尊の自誓受戒については以前も書きましたが、 すたれた戒律を復興する趣旨で授戒する師がいないため、東大寺戒壇院で行われたものです。受戒をいかに重視していたかが読み取られます。 また道元が比叡山延暦寺で受戒したのは事実ですが、中国でそれが通用しなかったのは延暦寺が「官寺ではないため」ではありません。 延暦寺戒壇はれっきとした国立戒壇でした。中国でそれが通用しなかったのは東大寺以外は大乗の菩薩戒しか授戒しないからです。 当時の中国では菩薩戒のみの受戒は認められていなかった。このため道元を連れた明全は国家公認で東大寺の戒牒を偽造して入宋しました。 道元はそこで清浄で緊張した曹洞宗に触れ深く感動し、厳しい座禅修行に励み、師の如浄に認められるにいたりました。しかし帰国してみれば、 山椒島さんが116で仰るように、日本の仏教界の堕落ぶり、荒廃ぶりはさらにひどいものでした。そこで道元は疎んぜられたのです。 宗派が乱れ、無戒・破戒が蔓延し、受戒や潅頂が形式化したのは仏教界の堕落の結果であって原因ではありません。 鎌倉仏教が既成仏教に対する反発から起こったといっても間違いではないでしょうが、その堕落に抗して古来の戒律の復興を期する立場、 末法無戒を所与の事実として受け入れる立場、それらの喧騒から離れ仏道に励む立場など様々です。その堕落した鎌倉の世にあって、 雲海に屹立した高峰のような存在が叡尊や忍性であり栄西や道元であった思います。
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