- 学会の本尊はカラーコピーだった 24
636 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/12(金) 00:01:10.22 ID:9cXVtx5U - >>628
ならば、その憲法学者の見解のみを掲載した聖教新聞の間違いでしょう。 「政教一致」と言うのは、宗教が政治行政機関の一つになることを言いますから、 現在の公式参拝は「政教一致」そのものではありません。 過去の「政教一致」の名残りであるため、他の国や「政教分離」の現憲法から 言えば「政教一致」と批判されることになるだけで、 現在の公式参拝自体は「政教一致」そのものではありませんよ。
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- 日蓮って ver.29
505 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/12(金) 01:11:10.59 ID:9cXVtx5U - >>504
>ですから、それがあなたの「普通」なのでしょう。それで良いですよ。 そのような逃げをせずに、日蓮が晩年に念仏に傾倒したと言う「有名な話」を出せばいいだけのことですよ。 >>448や>>492は、日蓮が言う「霊山浄土」と念仏の「極楽浄土」を混同して、浄土思想に傾いたと言っているだけ のことですから、根拠にはならないでしょう。 念仏の「極楽浄土」は単に阿弥陀仏の極楽世界を指しており、阿弥陀仏の極楽世界から見れば、娑婆世界を「娑婆浄土」と 言っているようなものでしょう。 日蓮が言うところの「霊山浄土」は、仏に成った(成仏した)人達が行くところですから、日蓮が「霊山浄土」と言っても、 念仏の浄土思想とは異なりますよ。
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- 日蓮って ver.29
507 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/12(金) 01:59:49.83 ID:9cXVtx5U - >>506
>日蓮が「霊山浄土」と言ってる処には阿弥陀はいるのでしょかね? 普段は自分の仏国土にいて、いないんじゃないですかね。 法華経の虚空会には出てきていますから、法華経が説かれる場には十方の諸仏として 釈迦の「霊山浄土」にも来るのでしょう。
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- 日蓮って ver.29
512 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/12(金) 07:45:03.47 ID:9cXVtx5U - >>508
>いまだかつて出現したのを誰も見た人がいないのは法華経がちゃんと説かれていないから? それはどうでしょうかね。法華経では、福徳の薄い人は無量・百千万億の劫という長い時間を経過しても仏にすら会えない人がいる と言う話ですから、仏にすら会えない人は法華経がちゃんと説かれている場にもめぐり会えておらず、宝塔を見る機会が無いのは 当たり前だと言うことも出来ますよ。 >>509 >それって浄土思想そのものじゃん。名前がちがうだけで。 浄土思想は阿弥陀信仰ですから、仏の名や浄土が異なれば浄土思想そのものとはいいませんよ。 類似性があると言うなら、阿弥陀信仰が釈迦信仰から派生したものであれば、類似性があっても不思議ではないでしょう。 日蓮の唱題行と法然の「南無阿弥陀仏」をひたすら唱える「専修念仏」も連呼する点では類似性がありますから、 類似性自体は初めからあることであり、「念仏に傾倒した」とは言えないでしょう。 所詮はおなじ仏教の枠内なのでしょうから、類似性自体は何かしらあっても不思議ではないでしょう。
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- 日蓮って ver.29
514 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/12(金) 07:58:36.01 ID:9cXVtx5U - >>513
>つまり一同純円に福徳が薄いってことでw 末法の衆生の定義がそうですからね。 >つまり名前が違えばパクリではないってことでw 基準になるもの(仏や依経)が違えば異なる思想でしょう。
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- 日蓮って ver.29
515 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/12(金) 08:14:02.76 ID:9cXVtx5U - >>508
>阿弥陀はどこにでも出張するという設定 仏であればどこにでも行けると設定されていても、仏国土が1人の仏が教化できる範囲のことを指すという設定も ありますから、娑婆世界に来て阿弥陀仏が衆生を救うのかとと言えば、それはしないのでしょう。 娑婆世界に居ても阿弥陀仏が何かしてくれるなら「阿弥陀仏の極楽世界に行こう」と言う浄土思想も無いのですから、 阿弥陀仏は基本的に自分の極楽世界に居て、虚空会のようなイベントがあれば、そこに行くのでしょう。
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- 日蓮って ver.29
529 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/12(金) 15:10:19.78 ID:9cXVtx5U - >>519
>平安時代には阿弥陀仏の来迎図が盛んにつくられていますね。臨終の際には >阿弥陀仏の手からのばした七色の糸を握って、阿弥陀浄土へ生まれることを >願ったといいます。 阿弥陀仏の来迎、阿弥陀浄土へ生まれることのどちらも浄土教の臨終時の「願い」ではないでしょうかね。 極楽世界の阿弥陀仏が娑婆世界の衆生を教化しないために、臨終後に阿弥陀仏に迎えに来てもらって、 阿弥陀浄土へ生まれると言う発想なら、やはり、阿弥陀仏は娑婆世界では何もしないと言う認識が 当時でも一般的なのではないでしょうかね。
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- 日蓮って ver.29
530 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/12(金) 15:18:04.53 ID:9cXVtx5U - >>522
>そこに日蓮は何をしに行くつもりなのでしょうか? それは日蓮の書の日蓮が「霊山浄土に行く」とした部分に書いてあるのではないでしょうかね。 >>446の「本尊抄送状」では、仏にあいさつに行くつもりと言うことでしょう。
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- 日蓮って ver.29
532 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/12(金) 15:37:44.66 ID:9cXVtx5U - >>526
>浄土往生といえばモノ知らずには阿弥陀佛しか想起できなくなったというだけのこと。 浄土往生思想が仏教で一般的だと言う立場から言えば、日蓮が「霊山浄土」と言うのを「日蓮が念仏に傾倒した」と言う 根拠にはならなくなるでしょう。 「日蓮が念仏に傾倒した」と言うのも「モノ知らずには阿弥陀佛しか想起できていない」と言うことになるのでしょうから。 日蓮が単純に「死ねば仏に会えて仏に成れる」としていたら、阿弥陀信仰に限らない浄土往生思想と言えるでしょうが、 日蓮の解釈ではこの娑婆世界がもともと仏国土ですから、仏が見える見えないは衆生の心の問題としているのでしょう。 「十字御書」(60歳)の記述では「我等凡夫はまつげのちかきと虚空のとをきとは見候事なし」とあり、 凡夫の目では仏(の世界)も見えないと言うことでしょうから、「仏の目」、要は仏に成る、仏果を得ていなければ、 死んでも仏も仏の世界も見えたりはしないのでしょう。 もっとも、死んでからでしか、仏果を得ていたか、得ていないのか判明しない気もしますが。
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- 学会の本尊はカラーコピーだった 24
645 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/12(金) 16:48:28.09 ID:9cXVtx5U - >>643
カルト的な日蓮正宗信者から見れば、そう見えるのでしょう。 日蓮正宗と創価の仲違いは、組織規模の差が開きすぎたためでしょうね。
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- 日蓮って ver.29
534 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/12(金) 18:17:17.37 ID:9cXVtx5U - >>533
>晩年になると、霊山浄土に往く思想、 >つまり往生思想が頻繁に登場して来るわけです 日蓮の年齢とともに、信者の年齢も上がり、死んだ信者も多く出てきたため、頻度が高くなったのでははないでしょうかね。 死んだ信者に即身成仏云々というより、仏に成った後に行く場所として霊山浄土を提示しているのでしょう。 >法華経の信者が亡くなったら、迎えに来て云々という日蓮の文は、 >創価の葬式でも、読まれる事があるのではないかと思います 葬式で読まれるなら、亡くなった信者に対してのことでしょうね。 仏教全般の往生思想を調べる限り、浄土に往生する目的が仏に成ること。とあり、 即身成仏を説く日蓮の場合は、仏に成った後に行く場所が霊山浄土だと言う点に違いがあるのではないでしょうか?
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