トップページ > 創価・公明 > 2014年09月09日 > eIxNoOFr

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名無しさん@お腹いっぱい。
日蓮って ver.29
    学会の本尊はカラーコピーだった   24

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日蓮って ver.29
439 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/09(火) 11:53:43.59 ID:eIxNoOFr
>>423
>釈迦が自分が悟ったと思っていなかったということはありそうにない。

それは、釈迦自身が書いた経典が無く、明確に仏と自称していなくとも、
「釈迦が自分が悟ったと思っていた」と言う意味でしょうか?

「仏陀」の意味は「buddha はサンスクリットで「目覚めた人」「体解した人」「悟った者」などの意味」とあり、
仮に「他者が尊称で使う言葉」であれば、「他者評価」として「仏陀」が用いられているのですから、
自身で「仏」と自称することは、そもそも無いのでは?

日蓮も自身を尊称付きで「日蓮仏」とは言わないでしょうから、「自称していない」だけでは、
日蓮が自身を「仏(目覚めた人)とは思っていなかった」と言う決め手にはならないことになります。
日蓮って ver.29
440 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/09(火) 12:07:58.63 ID:eIxNoOFr
>>425
>うーん、かなりこじつけっぽいような気がしますが?

「暗に仏と自称している」文、一つ一つを見るなら、「こじつけ」と言って退けられるものでしょうが、
相当数あれば、「仏とは思っていない」と断定することは出来ないのではないでしょうかね。
逆に、日蓮自身が「自分は仏では無い」と明確に否定している文は無いのでしょうか?
一つでもあれば、この手の話題では既に出されている気もしますが。

日蓮は南無妙法蓮華経を唱えれば仏に成れると主張していますから、言っている本人が「自己評価」として、
自身を仏と思っていたか、思っていなかったのかは、興味のあるところです。
日蓮って ver.29
441 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/09(火) 12:12:54.23 ID:eIxNoOFr
>>425
>うーん、かなりこじつけっぽいような気がしますが?

「暗に仏と自称している」文、一つ一つを見るなら、「こじつけ」と言って退けられるものでしょうが、
相当数あれば、「仏とは思っていない」と断定することは出来ないのではないでしょうかね。
逆に、日蓮自身が「自分は仏では無い」と明確に否定している文は無いのでしょうか?
一つでもあれば、この手の話題では既に出されている気もしますが。

日蓮は南無妙法蓮華経を唱えれば仏に成れると主張していますから、言っている本人が「自己評価」として、
自身を仏と思っていたか、思っていなかったのかは、興味のあるところです。
日蓮って ver.29
442 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/09(火) 12:22:27.19 ID:eIxNoOFr
>>431
>しかしその場合は必ず「その例外の前提」が条件として示されなければならない。引用文にはそれがない。あなたはそれに気づかない。

いいえ、文例で示したように、「例外」に限らないでしょう。
2つのものの同一面を提示した上で、2つのものの差異を提示する場合にも「但し」が使われます。

「自転車も自動車も同じ乗り物」「但し」「自転車は人力で、自動車はエンジンで走る」
「鳩もカラスも同じ空を飛ぶ鳥です」「但し」「鳩とカラスで泣き声や体格などの特徴が異なります」
と言ったかたちで、元々2つのものの同一面を提示した上で、2つのものの差異を提示する時に「但し」が使われます。
元々2つのものの同一面を提示したいだけなら、「但し」以降の文章は必要が無く、わざわざ、「但し」とおいて、
「但し彼は脱此れは種なり」としている場合は、両者の差異を提示する必要がある場合でしょう。
両者の差異とは、「脱」と「種」になります。

「本尊抄」以外で、同一面を提示したいだけの場合は「在世の本門と末法の始は一同に純円なり」と同趣旨の文意で
文章が終わっている日蓮の書もあるでしょう。しかし、「本尊抄」は「但し彼は脱此れは種なり」と続けているため、
両者の差異を提示する必要があったから、「但し彼は脱此れは種なり」があると普通の文章解釈をすればいいだけでしょう。
    学会の本尊はカラーコピーだった   24
576 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/09(火) 21:46:27.38 ID:eIxNoOFr
>>575
>戦後に日蓮宗に改宗したものです。

最上稲荷のことを言っているなら、「慶長6年(1601)に領主の花房公によって関東から招かれた日円聖人により
「稲荷山妙教寺」として再興され」とのことですから、日蓮宗への改宗は江戸初期でしょう。
戦後は日蓮宗から独立しており、日蓮宗に戻ったのは平成21年とのことですよ。
日蓮って ver.29
446 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/09(火) 22:46:49.09 ID:eIxNoOFr
>>443-444
>「無常・霊山浄土」などと言うようになり、日本本来の仏教精神に帰ってき
特に「無常・霊山浄土」と言う言葉を使ったからと言って、念仏的になったとは言えないでしょう。
「本尊抄送状」(52歳)に「師弟共に霊山浄土に詣でて三仏の顔貌を拝見したてまつらん」とあり、
「持妙法華問答抄」(42歳)にも「霊山浄土」の単語は使われており、身延に住み始めてから使い出したわけでも
無いでしょう。

>死に近づくにつれ強くなり、乗っている馬にさえ、愛情を注ぐ日蓮になりました。
文面を読む限り、愛情を注いでいるのは日蓮ではなく、日蓮をひじりに例えて、凍えているのが可哀相になって、
西山殿が物を送ったのでしょう。という意味ではないでしょうか?

>自分では仏と思っていたら法華経で釈尊がしたように「おまえは○○如来となるであろう」などとの
>授記をしていたと思うんですよ。
日蓮も亡くなった信者の遺族に「成仏している」と言っていたのではないでしょうかね。

>自分が仏だとおもっていたら、釈迦仏を持仏としてもっているはずがないのでは?
日蓮自身が自分を仏と思っていても、釈迦が仏で無くなるわけでも無いのですから、捨てる必要性も無いのでは?
日蓮って ver.29
447 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/09(火) 23:09:54.52 ID:eIxNoOFr
>>445
>「在世の本門と末法の始は一同に純円なり!・・・ 【付け加えてこれを申すならば】・・・ 
>釈迦が作った在世良き法華経薬も、末法の五字の妙法蓮華経も一同に純円なり。」

それだと、何も付け加えていないと思うのですが。

>なんですかね、ここでは日蓮が「末法には余経も法華経もせんなし」って言っているようには思いませんね。

そもそも、上野殿御返事の「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」の裏づけとして、
「但し彼は脱此れは種なり」の文が出されているでしょう。
    学会の本尊はカラーコピーだった   24
579 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/09(火) 23:46:33.60 ID:eIxNoOFr
>>567
>その本地がなんであるかについて風習と最上稲荷の見解が異なっている(こういう見解の相違はよくあることだ)のと
>イエス云々はわけが違う。

「弥勒菩薩=再臨のキリスト」はあるようですよ。また、「七福神の布袋=弥勒菩薩」もありますね。
創作の「最上位経王大菩薩」を稲荷と習合するより、「イエス云々はわけが違う」とは言えないのではないですか?

>あるわけないだろう。>ないね。

では、日蓮宗運啓山修性院の布袋を「七福神の布袋=弥勒菩薩=再臨のキリスト」として、祈祷本尊にしてもOkなのでは?
それでも「イエス云々はわけが違う」なのでしょうか?


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