- 日蓮って ver.29
382 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/08(月) 07:23:30.84 ID:KSqzRAt0 - >>377
日蓮教では権実相対で法華経が真、他は方便で仮の教え、本迹相対でその法華経でも後半が真、前半は仮としている。 いわゆる本門とされる後半の寿量品では釈尊は常住不滅であり、入滅する姿を示すのは人々を励ます方便だと説かれている。 常住不滅のだから、入滅を前提とする末法説は方便になる。末法説を真実とするなら、それは久遠実成を否定することになる。 したがって末法説は、日蓮教のいうところの権実相対および本迹相対に違背するのである。
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383 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/08(月) 07:49:31.26 ID:KSqzRAt0 - >>377
>では、天台や日蓮が「羅什訳の妙法蓮華経のみを用いていた」と言う人への回答ですよ。 馬鹿か?私が指摘しているのは天台や日蓮が振りかざす一念三千なるものは羅什訳でしか成り立たないと言う事実だ。 ちがうというなら他の訳文でも十如是が成り立つとあなたが証明しろと言っているのだよ。 >十如是はサンスクリット原文からの意訳であるとの説で肯定されるものです。 意訳と言うのは一般に、直訳では意味が通じにくかったりする場合に原文の意味を損なわないように表現を変えて訳することをいう。 同じ羅什でも、例の竜女の成仏のくだりで、原文の「女性器が消え、男性器が現れ」を「変成男子」と訳したのは意訳といえる。 だが原文で5通りを漢語を用いて10通りの表現に改変するのは意訳とはいえない。それは創作である。一念三千の根拠はこれなのだ。 381さんが引用している岩本訳でもいわば「五如是」になっている。十如是は羅什訳だけだ。つまり「十如是」という法門は羅什による。 >それ以前に、私は十界の定義に関して、便宜的に十に分けて説明したものだと思っています。 それではますます翻訳とは言えない。原文にない意味を自分の考えで付加して恣意的な改変を加えているという話になる。 >「一念三千」の三千と言う数字自体は便宜的なものだと思っていますから 私もそう思っている。つまり天台や日蓮の一念三千というのは経典に根拠を持たない空論ということだ。 したがって羅什訳以外で普遍的に成り立つ必然性など全くないのは当然のことだ。本日のポイントはここだ。
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384 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/08(月) 08:10:54.55 ID:KSqzRAt0 - >>360
横になるが、同じ人なので一言レスしておく。 山椒島さんは精密な議論をする人だ。彼は種脱に差異や勝劣はないと一貫して説明している。 これは、その差異はあなたのいう「差異」、すなわち勝劣などの序列的な価値判断を導き出す差異はないと言う意味だ。 なぜなら、誰が読んでも「一同に純円」なのだから、そうとしか解釈できないはずである。 だからこそ、そこで日蓮教の坊主らは「文底読み」という超荒技を繰り出して「一同に純円」を飛び越えるという話だよ。
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422 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/08(月) 21:05:41.64 ID:KSqzRAt0 - いやはや、傑作ですな。これだから法華経信者は馬鹿ばかりと言われるのです。
アホなくせに生半可に漢語の仏教擁護を使い、そのくせ何事もいいかげんな解釈で勝手な熱を吹きまわす。 これでは日蓮は自業自得とは申せ、勝手に名を騙られる釈尊こそいい面の皮でしょう。
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