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名無しさん@お腹いっぱい。
日蓮って ver.29
    学会の本尊はカラーコピーだった   24

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日蓮って ver.29
377 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/08(月) 00:02:29.57 ID:+vCf9+6U
>>550
>「方便説」と言っているではないか。

では、あなたの言う「方便説」とは何ですか? 「方便」とは教導法のことですから、
「それに依拠する末法説が方便説にならざるを得ず、権実相対、本迹相対に違背するという事実を指摘している。」と、
言っても、末法説が教導法であることと、「権実相対、本迹相対に違背する」と言うのは、どのような事実ですか?

>なお363の末尾5行は支離滅裂すぎて、申し訳ないが、とうてい逐語的にコメントする気になれない。

では、天台や日蓮が「羅什訳の妙法蓮華経のみを用いていた」と言う人への回答ですよ。
十如是はサンスクリット原文からの意訳であるとの説で肯定されるものです。
「日蓮の教説が羅什訳以外のどの訳でも普遍的に成り立つことを示す必要があります。」とあなたが言っても、
十如是がサンスクリット原文のどの部分の意訳を私は知りません。
それ以前に、私は十界の定義に関して、便宜的に十に分けて説明したものだと思っています。
このため、「一念三千」の三千と言う数字自体は便宜的なものだと思っていますから、十如是が五だろうが、一だろうが、
数字自体に関する議論は、ただの定義の話で、どの訳でも普遍的に成り立つことを示す必要があるとは考えていません。
日蓮って ver.29
378 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/08(月) 00:05:26.60 ID:+vCf9+6U
>>372 >>377

失礼、アンカーミスです。>>377は>>372へのレスです。
日蓮って ver.29
379 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/08(月) 00:28:07.78 ID:+vCf9+6U
>>371
>法華経を知っていても相手の機根に合わせて説けるのが仏の智慧なのですよ。

いいえ、法華経の位置づけが全ての衆生を仏にする経典であることから、法華経が説かれた後に、
「相手の機根に合わせて説ける」として、法華経以外を説くのは、無駄なだけでしょう。

>どうしても日蓮を仏にしたいのであれば、君等には無理なんですよ。

いいえ、法華経をベースにした解釈では「日蓮は仏では無い」とする根拠が無いだけです。

私は「日蓮自身はどのような主張をしていたか」と言う観点でここ居るだけですから、
「日蓮を仏にしたい」とか、「日蓮を仏にしたくない」とかには拘りはありません。
「日蓮自身はどのような主張をしていたか」と言う話と、日蓮を信じるか信じないかは別の話でしょう。
日蓮って ver.29
389 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/08(月) 09:15:49.02 ID:+vCf9+6U
>>374
>「種脱相対を主張する教団でさえも、あなたと同様なことは言っていない」と何度も書いてます。
あなたが、「但し」以降の文で、文章上、種脱相対が記述されている事実に反論出来ないために、
「同様なことを言っている人はいるのか?」と論点を変えた話を繰り返しているだけでしょう。
どこの教団にも属していない私が、どこかの教団と同じ主張をしなければならない理由もないでしょう。

>あのですね、本当に明確に述べられているのなら、私でもそう読みますよ。私はどっちでもいいんですから。

私の言っているのは、ただ普通の文書解釈ですから、明確でしょう。
「但し彼は脱此れは種なり」と明記されているのに、「但し」以前の文章で「脱も種も同じだ」とする解釈に無理があるのです。

「自転車も自動車も同じ乗り物」「但し」「自転車は人力で、自動車はエンジンで走る」と言う例で言えば、
あなたの話は「自転車も自動車も同じ乗り物なのだから、人力もエンジンも同じだとしか解釈できないはずである」と強弁しているだけですよ。
    学会の本尊はカラーコピーだった   24
559 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/08(月) 09:53:58.51 ID:+vCf9+6U
>>557
>そういう「この神だけ信じろ」「商売に使うな!」ていうのは、「狂信者」とか「カルト」と言うんですよ。
「この神だけ信じろ」はカトリックでもプロテスタントでも一神教であれば言うことで、「カルト」とは言いませんよ。
「商売に使うな!」というのは、「カルト」とかに関係無く言われることでしょう。

>十字架と稲荷を並べて礼拝すれば、なんの問題もないと思いますよ。
では、稲荷神を仏教の荼枳尼天や菩薩と同一視しているのは、問題があると言うことでしょう。

>多角経営というより、稲荷にしたら日蓮宗はいいお荷物?
という話があったから、最上稲荷は昭和29年7月に、宗教法人・最上稲荷教として日蓮宗から独立したのでしょう。
しかし、仏教ブランドを失ったため仏事関係の収益が減ったのか、独立後、仏事関係の収益を増やすためなのか、
55年後の平成21年7月に、傘下の寺院とともに日蓮宗に復帰しています。
「まあ、うまいことやったのではないでしょうか?」とは、言えないでしょう。

>何円が何円になったの?て調べてもわからないし
ネットで調べても、多くの宗派は冥加料の値段変遷も分からないでしょう。
このため、「如何にもウソくさい」と言う根拠にはならないでしょう。

>まあ本当かも知れませんが、そうしたら「へー」で済む話ですし。
どちらの話が本当でも、部外者からすれば、「へー」で済む話ですよ。
日蓮って ver.29
391 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/08(月) 10:03:26.04 ID:+vCf9+6U
>>390
>機根に応じた益の違いが明記されていると、その前にある、法体が一同に円教である、という

では、法体が一同に円教であっても、「機根に応じた益の違い」があると言うことでしょうから、
比較相対することで、「但し」以降で、優劣を明示しているということですよ。
釈迦在世と末法で機根の違いで、脱益と種益を比べているのですから、
末法では、種益が勝るという当たり前の話しでしょう。
日蓮って ver.29
405 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/08(月) 13:39:49.33 ID:+vCf9+6U
>>384
>そこで日蓮教の坊主らは「文底読み」という超荒技を繰り出して「一同に純円」を飛び越えるという話だよ。

日蓮が法華経を「文底読み」して法華経の解釈をした言うなら分かりますが、日蓮の解釈をさらに日蓮教の坊主らが
「文底読み」をしたら、二重に「文底読み」をしていることになりますよ。
その点は、>>328で指摘しました。

私は日蓮が法華経を「文底読み」して法華経の解釈をしたなら、日蓮の解釈をさらに「文底読み」する必要は無く、
「在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり」は、文章をそのまま読んで、「但し」で区切られて
「彼は脱」「此れは種」はそのまま「比較相対」ですよ。と普通の事を言っているだけなのですがね。
日蓮って ver.29
406 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/08(月) 13:47:00.01 ID:+vCf9+6U
>>393
>順縁の衆生がいることを日蓮は認めているのだからねえ。

末法に順縁の衆生がいても、釈迦が説いた法では末法で悟りに入る人がいない時期、なのですから、脱益がある
とは言えないでしょう。このため、日蓮は下種益を主張したのですから、「但し彼は脱此れは種なり」は、
久遠の昔に釈迦を仏にした「久種」の下種益が勝るという主張でしょう。

釈迦を仏にした「久種」は、釈迦の在世を基点とした正像末三期の概念の外にあり、
日蓮は末法でも「久種」を下種することで、衆生が仏になれるとしたのでしょう。
日蓮って ver.29
407 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/08(月) 14:07:51.38 ID:+vCf9+6U
>>403
>あなたの主張は、強いて言うなら「種脱一双」で、種脱相対ではありませんからね。
「一双」では無いでしょう。日蓮の表現も「但し彼は脱此れは種なり」ですから、相対的ですね。

>極めつけは、法華「一乗」をよりにもよって「自転車と自動車」だなどと例える始末。
権威主義的な物言いをしていますね。もっとも「顕本法華宗の本多日生師が私と同様の見解を述べられています」>>353
から、あなたの言い分は権威主義くさいですけどね。

>ま、あなたは>>314で「自身(日蓮)の法」だなどと馬脚を露わしていますしね。
「彼」「此れ」の表現ですから、「此れ」を「自身(日蓮)の法」と言うこと自体は差し支えないでしょう。

>行き当たりばったりであれこれ言い繕い続けた結果が>>391ですか。懲りない人ですね。

>>391も普通の文章解釈をしているだけですよ。
釈迦本門の脱益と、日蓮が言う「久種」の下種益の比較が、「但し彼は脱此れは種なり」でしょう。
日蓮って ver.29
415 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/08(月) 17:53:34.95 ID:+vCf9+6U
>>410
>「強いて言えば」一双です。
ただ強弁しているだけのようですね。

>誰もが鳩に着いて議論しているのに、あなたがカラスを持ち込んで「鳩だ!」と言い張っているだけです。
いいえ、「在世の本門と末法の始」が同一だと言う話ですから、あなたの例え話で言えば「鳥」の話をしているのです。
「鳩もカラスも同じ空を飛ぶ鳥です。但し、鳩とカラスで泣き声や体格などの特徴が異なります」と言ったかたちで
「但し」が使われます。

>まったくもって違います。「一乗」とは「唯一無二の至高の乗り物(教え)」。
用語の定義としてはそうでしょう。しかし、それは「但し」の前の「在世の本門と末法の始は一同に純円なり」までで文章が終り、
在世の本門と末法の始は同様に唯一無二の至高の乗り物(教え)であるとするだけで十分な話であり、「但し」以降の文章を日蓮が
書く意味がありません。「但し彼は脱此れは種なり」と文章が続けられているのですから、普通に読めば、
「在世の本門と末法の始」の両者に差異があると日蓮は「但し書き」をしているのです

>大有りです。日蓮本仏論を採らない限りは、「彼」も「此れ」も「釈尊の法」です。当たり前の話です。
それは単に日蓮本仏論を採る・採らないの論争上の話でしょう。私は、普通の文章解釈上の話をしているだけですよ。
日蓮って ver.29
416 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/08(月) 18:31:35.59 ID:+vCf9+6U
>>414
>“せんなし!”と言っているうちは「日蓮は仏では無い」のです。法華経をベースに仏にならせるのであるならば、
>地獄に堕ちてからですね。

ならば、日蓮は佐渡で「極寒地獄」や「飢餓地獄」に堕ちたのではないでしょうかね。そこで日蓮が「仏」なら、
十界互具で言うところの「地獄界の仏界」と言うものでは無いでしょうか。
もっとも、「地獄に堕ちてから仏になる」と言った類の話は、宗教に関わっている人同士がしていても、私には水掛け論に
しか見えませんから、そう言った類の話を私にされても何の説得力も感じないところですね。

私は、日蓮が本当に仏であったかどうかに興味は無く、日蓮の主張から日蓮自身が仏だと思っていたかどうかに
興味があるだけですよ。
    学会の本尊はカラーコピーだった   24
564 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/08(月) 19:18:46.35 ID:+vCf9+6U
>>563
>祈祷本尊と宗旨の本尊の区別をしろと何回も言っているだろう。
区別出来ていないのは、>>553の日蓮宗の人も同じでしょう。
そして、その原因は、日蓮宗の最上稲荷が祈祷本尊を「最上位経王大菩薩」と名づけているのもあるでしょう。
日蓮宗系では、寺を運営主体して神社を併設している所がどれだけあるか分からないのですが、
>>531が「稲荷の本尊は釈迦牟尼仏 」と言い始めており、>>546のように「最上稲荷の本尊は釈迦牟尼仏」と、
「最上稲荷」の場合だけを言っているのでは無いでしょうから、日蓮宗の信者で、祈祷本尊と宗旨の本尊の区別が
出来ていない人が居るのが事実でしょう。
また、寺が運営主体で「○○寺の本尊は釈迦牟尼仏」と言うなら、そこで稲荷神を祀った建物が併設されていても、
誤解は少ないのでしょうが、○○稲荷などの通称があるところは神社が運営主体のように見え、それで日蓮宗の信者が
「稲荷の本尊は釈迦牟尼仏」と言っていたら、祈祷本尊と宗旨の本尊の区別が出来ていないのは、日蓮宗の信者のほうだと
思うのが普通では無いでしょうかね。

>護摩供・祈祷の儀式での主尊に何を据えるかは宗旨と関係がない。
それは、少しいおかしな感じですね。
日蓮宗の宗旨で、「稲荷」を定義していなかったら、本来、「稲荷」は祈祷本尊にすらならないのが普通ではないでしょうか?
また、日蓮宗では「護摩供・祈祷の儀式での主尊に何を据えるかは宗旨と関係がない」が、本当なら、
「キリストを主尊に据えても、宗旨とは関係無いからなんの問題もない」と言うのが日蓮宗の考え方になりますよ。
日蓮って ver.29
420 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/08(月) 20:20:15.90 ID:+vCf9+6U
>>417
>いわゆる「御書」の中でもそのような文面はないですしね。

なるほど、「仏と自称していない」のは確かに「仏と思っていなかった」と言う一つの根拠になりますね。
では、日蓮は「南無妙法蓮華経」を本尊としており、「経王殿御返事」の「日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・
すぎたるはなし」の文は、どうでしょう?
日蓮が「仏」と言うのをどのように考えていたのかにもよりますが、「たましひ」の点では、日蓮自身の魂と「南無妙法蓮華経」の
本尊を同一視しており、暗に「仏と自称している」ことになります。
「明確な自称は無い」と言えますが、「暗に自称している」と言える文章は存在していると言えるでしょう。

「暗に自称している」と言える文章がどれくらい存在するのかまでは分かりませんが、相当数あるのであれば、
「日蓮は日蓮自身を仏と思っていなかった」とまでは言えないでしょう。
日興系で「南無妙法蓮華経」を本尊としているの宗派では、「開目抄」の「日蓮という者は去年九月十二日子丑の時に
頚はねられてしまって、魂魄は佐土の国にいる」と言う文や「日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」の文
などを「暗に自称している」文として、「本尊=南無妙法蓮華経=日蓮の魂=日蓮=仏」としているのでしょう。

また、自称している・していないの点で、釈迦はどうだったのでしょう。釈迦自身は書を残していなかったとされており、
現存する文献も全て釈迦直筆のものは無く、弟子などが残したとされますから、弟子から「仏」と呼ばれながらも、
釈迦自身は「仏と思っていなかった」と言うことになるのでしょうか?
日蓮って ver.29
421 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/08(月) 21:04:11.88 ID:+vCf9+6U
>>419
>佐渡で地獄に堕ちた後で謗っているようで、そんなものでは懲りてないようですよ。

それでは、地獄に堕ちたら仏になると言う>>414の話と矛盾しますね。
このため、「水掛け論」にしか聞こえませんよ。と言っているのですけどね。

>まぁ、法華経では誰でも仏になれると説いた物語なのですから、争う必要などないわけです。

それでも「信じる信じない」の争いが起こるのは、法華経に「法華経を説くと難に会う」とあるからだ
と言うのが、日蓮の主張ではなかったでしょうかね。
もっとも、「法華経を信じない」と言って争いを仕掛けていたら、どちらも争いには会うと思うのですけどね。
    学会の本尊はカラーコピーだった   24
566 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/08(月) 21:28:49.04 ID:+vCf9+6U
>>565
>イエスが佛法を守護する諸天やそのほかの諸尊として位置づけられるのであるならば、
>なんの問題もない。

それは、宗旨の位置づけ次第なのでは無いのですか?

>それこそが本地垂迹思想&神仏習合という日本の佛教の風習にほかならない。

その話は、稲荷神は仏教の荼枳尼天と神仏習合しているから問題ないと言えますが、
稲荷神を「最上位経王大菩薩」と名づけて、稲荷神と菩薩とを同一視しているのは、風習とは関係が無く、
「護摩供・祈祷の儀式での主尊に何を据えるかは宗旨と関係がない。」と言って、風習とは関係が無い、
「最上位経王大菩薩」がOKなら、日蓮宗では、風習とは関係が無いキリストもOKでしょう。
と、聞いているのですけどね。

日蓮宗では本当に「護摩供・祈祷の儀式での主尊に何を据えるかは宗旨と関係がない。」と言っているのでしょうか?
宗旨に「護摩供・祈祷の儀式での主尊に何を据えるか」の規定ぐらい普通はあるのではないですか?


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