- 学会の本尊はカラーコピーだった 24
525 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/06(土) 01:25:48.57 ID:cb6y4l16 - >>524
>むしろ、稼がないのであれば、それは悪であるとイエスキリストは言っています。 日蓮宗では、稲荷信仰以外にキリスト教にも手をだしているのでしょうか? そのそも本来の事業(日蓮独自の教義)では宗教ビジネスが成功しないため、稲荷信仰などの多角経営に走ったのでしょう。 新興宗教が先天的に様々な宗教の寄せ集めであるならば、日蓮宗は後天的に様々な宗教の寄せ集めでしょう。
|
- 日蓮って ver.29
314 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/06(土) 06:17:05.35 ID:cb6y4l16 - >>313
種脱に差異や勝劣があるから、「但し」と文章が続くのでしょう。 文章的には、前の文章が長々とあるのですが、「所謂一往之を見る時は久種を以て下種と為し 大通前四味迹門を熟と為して本門に至つて等妙に登らしむ、 再往之を見れば迹門には似ず本門は序正流通倶に末法の始を以て詮と為す、」とあり、 「在世の本門と末法の始は一同に純円なり」と結ばれているのは、 「在世の本門」で説かれる法も「末法の始」に説かれる法も「成仏の法」として「一同に純円」と言うことでしょう。 その上で、「但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」と差異を主張している文章で、 このような差異を主張する以上、当然のように自身の法が「末法の始」において勝っているという話でなければ、 わざわざ、その差異を主張する意味がありませんね。
|
- 学会の本尊はカラーコピーだった 24
529 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/06(土) 08:50:43.69 ID:cb6y4l16 - >>528
>「宗教は」と言っていたので例を出しただけです。 なるほど。しかし、キリスト教では別の神を崇拝対象にした時点で、 キリスト教内から異端として批判されるのではないでしょうかね。 >衆生の願いは商売繁盛・五穀豊穣です。 衆生側に責任転換していますね。 「顧客が求めるものを売って何が悪い」と、逆切れでもしているのでしょうか? あなたの言っているのは、日蓮宗の本尊である久遠実成の釈迦牟尼仏では 衆生の願いである商売繁盛・五穀豊穣を叶えることが出来ないので、 顧客が求める稲荷神を本尊にしたと言っているだけですよ。
|
- 学会の本尊はカラーコピーだった 24
533 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/06(土) 09:29:48.63 ID:cb6y4l16 - >>530
その経緯は創価側の話では違うようですよ。 発端は日蓮正宗側が御本尊下付、塔婆、永代供養料等の冥加料値上げを通告したためのようです。 創価側は冥加料値上げに反発し、日蓮正宗僧侶の網紀粛正を申し入れるなどしたため、関係が悪化、 日蓮正宗側は創価の幹部会での池田氏のスピーチを、当時の大石寺住職・日顕法主に対する批判だとして 池田氏への「懲罰」として、総講頭(日蓮正宗の信徒役職)を罷免。 日蓮正宗と創価学会の組織的な対立に発展するという経緯です。 あなたの言う、正本堂を壊した理由「学会員がこなくなったら邪魔なだけなので」は間違いで、 日蓮正宗は正本堂を壊した後に使用用途が正本堂と同じで、「奈良東大寺大仏殿がすっぽり入る」奉安堂を建てていますから、 「邪魔」だから壊したのでは無いでしょう。 ただ、意義的には正本堂が将来、大石寺の本堂になると言う名目で建てられたのに対して、 奉安堂は、あくまでも「蔵」だと言うことで、将来的にはいつ建て替えが行われてもいい建物となっており、 その時期にたまたまあたった信者には、また「莫大な寄付」が要請される可能性が高いものになっています。
|
- 学会の本尊はカラーコピーだった 24
534 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/06(土) 10:01:07.65 ID:cb6y4l16 - >>531
>キリスト教は稲荷も戎も信じていませんし、信じても異端視されません。 キリスト教で稲荷を本尊にした教会があったら、流石に異端視されるでしょう。 >稲荷の本尊は釈迦牟尼仏ですから 日蓮宗ではそのように統一されていないようですよ。 有名な最上稲荷では「最上位経王大菩薩」で、祈祷本尊とされています。 「王地山まけきらい稲荷」の本経寺では、「王地山稲荷は本経寺の境内に勧請されているご守護神」とあり、 本経寺の本尊とは区別され、稲荷は「守護神」の位置づけです。 あなたは日蓮宗では無いとのことですから「稲荷の本尊は釈迦牟尼仏」と強弁するのは、 日蓮宗の信者に対して失礼になるため、やめたほうがいいですよ。
|
- 学会の本尊はカラーコピーだった 24
536 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/06(土) 10:49:45.15 ID:cb6y4l16 - >>535
語弊のある表現をしているのは、>>531ですよ。
|
- 日蓮って ver.29
323 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/06(土) 11:20:22.07 ID:cb6y4l16 - >>322
>あなた達の「文底読み」が客観的に立証されない限り、対外的には何の説得力も持ち得ません。 「文底読み」などはしていませんよ。 >>314は文章のまま読んで、あなたの言うように一品二半=南無妙法蓮華経で「一同に純円」で、 「成仏する法」として同一でしょう。 私は「但し」以降の文章で、種脱に差異や勝劣を日蓮が主張しているとしているのですよ。 種脱の違いはそれ以前に説明があるように、生死を繰り返して仏になる修行法と、今生で仏になる修行法の違いでしょう。 「彼は一品二半此れは但題目の五字なり」は、そのまま字数の違いではないでしょうかね。 日蓮は「題目」を唱える簡易な修行法の優位性を主張していたのですから、「此れは但題目の五字なり」で優位性を示している と、解釈するほうが、日蓮の他の主張と合いますね。
|
- 日蓮って ver.29
328 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/06(土) 15:22:16.34 ID:cb6y4l16 - >>326
>ですから、種脱相対を主張するのなら、本尊抄の「但し」以前を「実は同一でない」と置き換える文底解釈が不可欠で、 「文底解釈」と言うのが何に対して言われているのか、あなたが勘違いしているのでしょう。 法華経に関して日蓮が「文底解釈」したと言う話ですから、法華経に関する日蓮の書自体を二重に「文底解釈」する必要は 無いでしょう。「所謂一往之を見る時は久種を以て下種と為し大通前四味迹門を熟と為して本門に至つて等妙に登らしむ、」と あるように、「久種を以て下種為し」ですから、「此れは種」の「種」は同じ「種」を示しています。 「但し」、「彼は脱」としていますから、釈迦の法華経では下種以降、生死を繰り返して、法華経本門で仏になる法だと言う、 既存の法華経解釈で言われる衆生が仏になる時期を比較して、「彼は脱」、「此れは種」と対比していることになります。 そして、「一品二半」と「題目の五字」が「一同に純円」の仏になる法であるならば、 日蓮が主張した「題目の五字」で今生に仏になるとの話しから言えば、「脱」より「種」が勝っていることになります。 >種脱相対論は、主として日寛の「文段」に拠ります。まずはその辺りとの整合を取って下さい。 あなたが日寛を否定しているのであれば、日寛との整合を取る必要は無いでしょう。 日蓮の書をそのまま読んでも、種脱の比較(相対)がされているのは読み取れるのですから、 種脱に差異や勝劣が無いとは言えませんよ。
|
- 日蓮って ver.29
329 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/06(土) 15:27:22.22 ID:cb6y4l16 - >>320-321
あなたが別の話をしたので回答を後回しにしました。 >これが真実なら、末法と言う観念は当然、破綻します。 あなたが言う教主釈尊の常住不滅は、「仏」の常住不滅ですから、仏がその時折に説いた「法」の常住不滅では無いでしょう。 このため、末法と言う観念が破綻する根拠にはなりませんね。 >羅什訳法華経の題名を音読みで唱えることが導かれるのでしょうか。 あなたの言っているのは日蓮が示した修行法のことですから、論点がずれていますね。 もっとも、あなたが『仏が示した修行法も「法」である』と言う立場であるならば、「日蓮が示した修行法」は、 「日蓮と言う仏が説いた法」と成り得るでしょうから、あなたがその立場で言っているのあれば、少し考えたい気はしますね。 >羅什を仏宝、題目を法宝、日蓮を僧宝とすべきではないでしょうか 羅什は翻訳者で、法華経を説いた(もしくは編纂した)人では無いですから「仏宝」としなければならない根拠にはなりませんね。 仏教で三宝をどのように定義すべきかと言う話しは別の話題でしょう。 少なくとも、羅什が法華経を説いたのでは無いですから、「僧宝」にはなっても「仏宝」にはならないのでしょうね。
|
- 学会の本尊はカラーコピーだった 24
539 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/06(土) 17:32:48.34 ID:cb6y4l16 - >>537
>今や創価学会の掛け軸は日蓮正宗の本尊の真似だ それを言うなら、日蓮正宗の掛け軸も日蓮宗の真似でしょう。 単純に歴史的経緯から言えば、日蓮系宗派の総本山は身延山久遠寺でしょうし、 弟子の日興派の本山は北山本門寺でしょう。 大石寺を総本山とする日蓮正宗系はそれらから分派したのですから 日蓮正宗の掛け軸も日蓮宗の真似となりますね。
|
- 学会の本尊はカラーコピーだった 24
542 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/06(土) 20:09:05.18 ID:cb6y4l16 - >>540
>私は日蓮宗の信徒ですが、私の意見が日蓮宗の意見ということではない、 では、「稲荷の本尊は釈迦牟尼仏」はあなた個人の意見で、日蓮宗の意見ということではないと言うことですね。 あなたが、日蓮宗の意見では無い事を「個人の意見」と断らずにするからごちゃごちゃの話になるのでしょう。 日蓮宗の意見では無い、「稲荷の本尊は釈迦牟尼仏」を「個人の意見」と断らずに強弁するのは、 他の日蓮宗の信者に対して失礼になるため、やめたほうがいいですよ。 >そりゃ、キリスト側からしたらケシカラン!話でしょう。 だから、そのような教会があったら「異端」と言われるのですよ。 あなたは「個人の意見」で「稲荷の本尊は釈迦牟尼仏」と強弁しましたが、日蓮宗では、稲荷の本尊を釈迦牟尼仏と はしておらず、有名な最上稲荷では「最上位経王大菩薩」として祈祷本尊とされていますし、多くは他の宗派の寺と同様に 日蓮宗でも、稲荷は「守護神」の位置づけでしょう。 また、日蓮宗の本尊である久遠実成の釈迦牟尼仏だけでは衆生の願いである商売繁盛・五穀豊穣を叶えることが出来ないので、 顧客が求める稲荷神を祈祷本尊にしたと言うことでしょう。 >調べましたが、とりあえずぜんぜん関係ないみたいですねえ。 あなたが出したのは日蓮正宗側のものでしょう。 私は「その経緯は創価側の話では違うようですよ」と断って>>533を書いていますよ。
|
- 日蓮って ver.29
334 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/06(土) 21:46:16.73 ID:cb6y4l16 - >>330
>この貴殿が自ら述べた趣旨にそって、議論をしてもらいたい。 >>79は私ではありませんよ。 >釈迦の法は不滅しておられますか? 「釈迦の法」自体は不滅でしょう。「末法」は仏法が正しく行われなくなり、悟る人がいなくなる時期のこと。もしくは、 仏の教のみが存在して悟りに入る人がいない時期のことで、「釈迦の法」自体の滅・不滅では無く、釈迦が説いた法では仏になる 人達がいない時期のことです。そもそも、正法・像法・末法という三つの時期は、釈迦の在世を基点とした概念で、 「釈迦自身が仏に成った法」は「久遠」から存在しているとの解釈ですから、正像末の概念に捉われる事無く、末法でも、 仏に成ることが出来る法であるということでしょう。
|
- 日蓮って ver.29
335 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/06(土) 21:49:27.81 ID:cb6y4l16 - >>331
>違います。 何が違うのか不明な返答をしていますね。 「この通り、在世は脱だけではありませんし」とあなたが言っても、仏になる時点は在世では「脱」でしょう。 これは、在世にあっても仏になる時点は、今生が「脱」の時期にある衆生が仏に成るという、既存の法華経解釈でしょう。 日蓮の主張では「久種を以て下種為し」と言う、その「久種」を「下種」した時点で、仏になるという解釈で、 これにより、釈迦自身が仏になったのもこの「久種」によるもので、「種」「脱」を比較して、 「種」の優位性を示しているのでしょう。 >繰り返しますが、在世と末法の違いは順縁・逆縁の徒のどちらが多いかであって、勝劣論ではありません。 それは、「在世と末法」の定義の話で、種脱相対の話ではありませんよ。 日蓮の解釈では、「久種」よる成仏は、正像末のどの時期にでも優位性があったとしていたのでは無いでしょうか? 日蓮の書では、像法の天台大師が、日蓮の言う「題目」の修行をしたとありますね。 >あなたの論は賛否いずれの人達とも認識が異なります。続けるのでしたら相応の根拠を挙げて下さい。 いままで出ている「本尊抄」をそのまま読んで根拠にしていますよ。 あなたこそ、「本尊抄」には不要な「文底解釈」で「本尊抄」をそのまま読まずに話をしているのではないですか?
|
- 日蓮って ver.29
336 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/06(土) 21:53:19.83 ID:cb6y4l16 - >>333
>ところが末法は仏の滅後○○年という設定です。 方便で滅してから○○年という設定でしょう。カウントダウンが始まらないと言う根拠にはなりませんね。 >あなたのように予め日蓮が本仏だとの前提に立てば、日蓮のやることなすこと全てが仏法でしょうから何の問題も生じないでしょう。 では、あなたが問題の無い方の前提に立った解釈をすれば、あなたの問題の全が解決しますね。 >つまり天台や日蓮の教義は羅什の漢訳以外では成り立たない。 天台や日蓮が「正法華経」を否定したということが無ければ、あなたがどの漢訳法華経に拘っているかの問題でしょう。 「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」の翻訳としては、どちらのタイトルも間違いでは無いでしょうから、 日蓮が唱題行を考案するに当たり、題目として唱えやすい「南無妙法蓮華経」を選択しただけではないでしょうかね。 天台や日蓮が「正法華経」を否定し、「妙法蓮華経」のみを用いていたとする根拠が無ければ、単にあなたの問題ですよ。
|