トップページ > 創価・公明 > 2014年09月06日 > HxdhrO+C

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名無しさん@お腹いっぱい。
日蓮って ver.29

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日蓮って ver.29
316 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/06(土) 08:19:15.92 ID:HxdhrO+C
>>310
いや信じてはいない。信じられれば自分はクリスチャンになるだろう。ただ一概にデマと一蹴できない事情があるのではと思う。
多くの病人を治したとの伝承は事実ではなかろうか。わずかの期間に権力が恐怖するほど、多くの民衆がイエスにつき従ったのである。
祭祀階級出身でもないイエスが説法だけでそれほど多くの民衆をひきつけたろうか。なにか数々の奇跡的な能力を示したのではないか。
イエス自身、信仰の薄い時代は証拠を求めると嘆いている。何らかの仕方で、その証拠を示したと考えるほうが自然であると思う。
釈尊にも奇跡譚が伝えられているが、似つかわしくない。釈尊は超自然的能力というより、尋常ならざる人格的感化力を持っていたように思える。
日蓮って ver.29
320 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/06(土) 09:26:55.51 ID:HxdhrO+C
>>314
そんなあなたに質問です。寿量品では教主釈尊の常住不滅が明かされています。入滅は方便だと明言しています。これはいわゆる「本門」にあたる部分です。
これが真実なら、末法と言う観念は当然、破綻します。法華経の他の章や他の経に末法が説かれていても、それは方便であって真実ではないことになります。
もし常住不滅も方便で、実は末法説が正しいなら、法華経のなかで末法を述べた章および末法説を説いた他の経は正しいことになり、「詮なし」にはならない。
前にも書きましたが、つまり「余経も法華経も詮なし」は存在論的に成り立たない命題なのです。種脱相対以前に、そこを論理的に説明できますか?
日蓮って ver.29
321 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/06(土) 09:44:06.77 ID:HxdhrO+C
>>314
もうひとつ。仮に無理筋の「末法では余経も法華経も詮なし」を不問に付し、すべての経の有効期限が切れたとしましょう。
そこでなぜその詮ないはずの「法華経に帰依します」と羅什訳法華経の題名を音読みで唱えることが導かれるのでしょうか。
これは私以外の他の方々も前から提出されている疑問のひとつです。
羅什訳でなければならないなら、日蓮教の三宝を、羅什を仏宝、題目を法宝、日蓮を僧宝とすべきではないでしょうか。
日蓮って ver.29
333 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/09/06(土) 21:05:05.36 ID:HxdhrO+C
>>329
いえ、私は「仏」の常住不滅を問題にしているのです。仏は実は常住不滅で、入滅するフリをするのは人々を励ます方便だと寿量品にあります。
ところが末法は仏の滅後○○年という設定です。しかし仏は実は常住不滅なわけですから、末法のためのカウントダウンは永久に始まりません。

私が聞いているのは、なぜ有効期限が切れた経の特定の漢訳名に帰依するのがどういう道理で法なのかと言うことです。
あなたのように予め日蓮が本仏だとの前提に立てば、日蓮のやることなすこと全てが仏法でしょうから何の問題も生じないでしょう。

しかしナマス・サッダルマプンダリーカス−トラでも南無正法華経でもなく南無妙法蓮華経でなければならないわけでしょう?
同様に十如是を導くためには羅什訳でなければ困るでしょう?だが釈尊は中国語で説法したわけではない。それは羅什であった。
つまり天台や日蓮の教義は羅什の漢訳以外では成り立たない。つまり天台や日蓮にとって法を提示したのは羅什ということになる。
むろん天台大師も日蓮も梵語を読めなかったので、自分たちが飛びついた部分が実は梵本にないなどとは知らなかっただけです。


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