- 日蓮って ver.29
308 :山椒島 ◆AUtVVr2znk [sage]:2014/09/06(土) 01:07:14.36 ID:3XJs2WQe - >>275 さん
そうですね。様々な立場・見方・考え方から、日蓮その人に対する是非論も当然あるだろうと思います。 ただ、先の龍ノ口の話ひとつ取ってもお分かりのように、今なお唱えられている日蓮像は専ら「虚像」です。 歴史に名を残した人達には多かれ少なかれあることですが、宗教系は特に"盛り方"が酷いですね。 >>276 さん そうなのですけどね。その「詮無し」の書(に限らず、多くの日蓮文書)の信憑性が>>269の通りでして。 仮にそれが日蓮の記述だったとしても、その文書全体の内容や、他に現存している直筆文書(真蹟)群から、 教義的な説明や(意地悪な見方も含めた)推測は可能です。「釈迦も法華経も無益」ではありませんが。 ただ元寇については、日蓮は(自分ではなく)「仏の予言」という理解でしたから、確かに衝撃だったようですね。 >>287 さん それがどうかしましたか?
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313 :山椒島 ◆AUtVVr2znk [sage]:2014/09/06(土) 02:36:41.20 ID:3XJs2WQe - >>312 さん
種脱に差異や勝劣があるのなら、「一同」でも「純円」でもなくなりますからね。 私が勝手に言ってるんじゃないですよ。天台・妙楽・日蓮に一貫していることです。 観心本尊抄にもちゃんとそう書いてありますよ。
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322 :山椒島 ◆AUtVVr2znk [sage]:2014/09/06(土) 10:45:20.82 ID:3XJs2WQe - >>314 さん
「寿量の法門は滅後の為に之を請ずるなり」。釈尊の法華本門は在世限定の脱益法でも、 「抜け殻」でも「去年の暦」でもありませんね。だから本尊抄にも書いてあると言ったでしょう。 「此の本門の肝心南無妙法蓮華経」「寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経」 説かれる法は同じですね。一品二半=南無妙法蓮華経です。だから「一同に純円」です。 種脱相対論は本尊抄だけでも既に矛盾爆発です。「詮なし」の上野殿御返事にも以下の通り。 「南無妙法蓮華経と申すは法華経の中の肝心」です。別物ではないのですから勝劣も無し。 差異があるのは正像末の「時」であり衆生の「機(機根)」です。説かれる「法」ではありません。 これが日蓮が書き残した主張です。他の真蹟群でも同様です。この基本は終始一貫しています。 ついでに言うと日興・日目らも同じです。あなたの論は、主に日寛以降に唱えられた別物です。 あなた達の「文底読み」が客観的に立証されない限り、対外的には何の説得力も持ち得ません。
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326 :山椒島 ◆AUtVVr2znk [sage]:2014/09/06(土) 12:25:22.98 ID:3XJs2WQe - >>323 さん
字数の違い、行法の違い。まぁ何でも良いですが、いずれにしても法門の勝劣ではないですね。 と言いますか、あなたの論は正宗系の各教団が唱える日蓮本仏論ともかなり異なるようです。 日蓮本仏論では、釈尊所説の妙法蓮華経と、文底独一本門の南無妙法蓮華経は別物です。 それら異なる法門の正邪勝劣を判じたのが種脱相対です。そもそも五重の相対自体がそうです。 ですから、種脱相対を主張するのなら、本尊抄の「但し」以前を「実は同一でない」と置き換える 文底解釈が不可欠で、その為の「金口嫡々の御内証」であり「大聖人直結の信心の血脈」です。 ザッと見た限り、創価学会でも日蓮正宗でもこの点に関する主張は今も変わっていないようですし、 私もそれを踏まえてこれまでレスを書いてきたのですが、あなたは何を根拠に書かれているのでしょう。 種脱相対論は、主として日寛の「文段」に拠ります。まずはその辺りとの整合を取って下さい。 日蓮どころか、主要な人師論師の誰とも異なるオリジナル論法を構えられても対応に困ります。
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327 :山椒島 ◆AUtVVr2znk [sage]:2014/09/06(土) 14:12:43.83 ID:3XJs2WQe - >>325 さん
これで連投規制にかかると思いますが・・・あら?ID:cb6y4l16 さんは別の方ですか? 日蓮本仏論における「別物」の理解は>>326の通りですが、天台の定義?を削った?からとは 知りませんでした。かつては聞きかじって知っていたかもしれませんが、とうに忘却の遥か彼方です。 「南無妙法蓮華経と申すは一代の肝心たるのみならず法華経の心なり体なり所詮なり」 建治・弘安年間以降も、こういった記述が無数にあり、日蓮は身延最晩年期まで法華経を読み、 釈迦立像の仏前にも供え、門下に講義し、勧めもし、その身に携行もしていたのは御存知の通り。 私はもう買い被られるほどの見識もありませんが、それでも日蓮らの言動とは辻褄が合いません。 それは文上だから?示同凡夫だから?不相伝の浅識だから?まぁ、色々と言われますね。 ではその文底なり、人師論師の釈なり、相伝とやらなりの正当性は何か。そこに行き着くわけでしょう。 余程の確証が無いと難しいと思います。もしあなた個人の見解なら、「そうですか」としか言えません。
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331 :山椒島 ◆AUtVVr2znk [sage]:2014/09/06(土) 18:44:43.22 ID:3XJs2WQe - >>328 さん
違います。 天台「並に脱し並に熟し並に種し 番々息まず」 妙楽「時々世々念々皆種等の三相有る故なり」 本尊抄「在世に於て始めて八品を聞く人天等或は一句一偈等を聞て下種とし或は熟し或は脱し」 この通り、在世は脱だけではありませんし、成道のために生死を繰り返しが必須なわけでもありません。 末法で下種を受けても信じなかったり、一旦は信じても後に捨ててしまえば今世の成道はかないません。 繰り返しますが、在世と末法の違いは順縁・逆縁の徒のどちらが多いかであって、勝劣論ではありません。 そもそも法が同じなら既に種熟脱の三益と具備しているのですから、勝劣を論じること自体が無意味です。 そして、「いや、文底の深義はそうではない」とし、日蓮>釈尊の最終勝劣を論じるのが種脱相対です。 あなたの論は賛否いずれの人達とも認識が異なります。続けるのでしたら相応の根拠を挙げて下さい。
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339 :山椒島 ◆AUtVVr2znk [sage]:2014/09/06(土) 22:26:15.19 ID:3XJs2WQe - >>332 さん
佐前の書で日興写筆ですが、「唱法華題目抄」に日蓮の考えが詳述されているようです。 書かれているレスから察するに、私の浅見よりも実際に読んでいただいた方が早いかもしませんが・・・ 「変な奴らには説くな」とする譬喩品と、構わず強いて説き回った不軽品との相反する記述について、 「要は時期と相手とをよく考えろということだ。末法の今は『説け』だ!」みたいな結論を出しています。 同じ堕地獄でも、既に下種有り(本已有善)なら、不軽品のように時間はかかるがまだ救いはある。 だが未だ下種無し(本未有善)なら、それが果てしなく絶望的な遠回りになる − という感じでしょうか。 同様な表現はその後も各書に見受けられますが、特に身延入山以降は急激に影を潜め、その代わりに 佐渡以降の弱気・煩悶といった表現が多くなります。折伏についても何か思う所があったのかもしれません。
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341 :山椒島 ◆AUtVVr2znk [sage]:2014/09/06(土) 22:38:47.91 ID:3XJs2WQe - >>335 さん
「あなたが言っても」ではなく、天台・妙楽・日蓮が揃って言っていることです。 「本尊抄」をそのままに読んでも種脱相対の根拠にはならないから挙げているのです。 読めると言うのならちゃんと読んで下さい。 種脱相対も同様です。解説しているサイトはいくらでもあるでしょう。 あなたのような見解は、少なくとも私は他に見たことがありません。 私が知らないのなら一通り知ってから検討します。オリジナルでないという根拠を挙げて下さい。 >>337 さん 私もそう思います。要は「この経は凄いぞ!」と繰り返しているだけですものね。
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