- 日蓮って ver.29
211 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2014/09/01(月) 18:06:07.16 ID:2inJnOWW - 法華経方便品ではその仏塔を容認しつつ、分別功徳品では否定するかのような語りですね。
その方便品での仏像、仏画、仏塔を作る者は「仏道を成就してる」とだけ述べているだけであって、 この者達を例に出して三乗と一仏乗を説こうとしてますね。 所謂、法華経が作成される爾前に、このような者達が存在してたということになってしまわれるわけです。 例えば、 菩提樹の下で釈迦が覚りを得た時期から、この法華経が説かれるまでの数年間で“仏像、仏画、仏塔を作る者”がおられたということですね。 これは大集経での像法でいうところ、多造塔寺堅固の枠内に入った説明を混同したもの思われてしまいます。 ここ法華経の段階では、多造塔寺堅固というものを濁らすよな余計な話を取り入れた筆者は、釈迦に成りきれずに、 この法華経物語を完璧に作ることができていなかったと思いましたね。(本人も難信難解) 上レスでも少し触れたのですが、これを予言的な説法で展開されていればよかったとは思うのですが、 そこで、後の十七章の分別功徳品では、 『如来の滅後に、若し受持し読誦し、他人の為に説き、若しは自らも書き若しは人をしても書かしめ、 経巻を供養することあらんは、復塔寺を起て及び僧坊を造り衆僧を供養することを須いず。』 と、はじめからこのようにするべきだったと思います。・・・と、 このような見解をするところに、私もクシャーナ朝?あたりから少しずつ制作された物語が法華経と思った次第であります。 >自画自賛の経典崇拝がトーンを高めているようにも思うのですが、どう思われますか? ほとんどの章がまったくのそのものでしょう。 しかし、爾前の教えで争う同士達を合併させるには良くできているような、気の利いた加上な物語ではありませんか。 今ではこの法華経が仇になって争いや分裂が興る始末の法華経行者達ですことが摩訶不思議であります。 (もしなにかしらに統括できる者達がいるのであれば、それは一闡提達ではないでしょうか。逆縁などと根暗なことはしませんし。w) それとあの法華経のキャラクターを全部変えて読めば、一闡提であった者が著作したようにも思いましたね。 それと、この物語には名言となるものがないのが残念です。←私ごとですが。
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