- 日蓮って ver.28
702 :ひゃっきまる ◆KnSOULKlyI [sage]:2014/07/28(月) 00:23:46.90 ID:kbj7zttV - >>701
お答えありがとうございます。 >>700 >> 五重の相対の一番初め、「内外相対」は、仏教(内道)と仏教以外(外道)のうち、仏教を優れているとするものです。 >確かにそうだが、判断基準が違う。 >因果の理法という考え方が根底にあるか(仏教)、そうでないかの違い。 因果を説いているかいないか、というのは、日蓮の言葉によるものですね。 しかし、例えば、釈迦が否定したバラモン教は、すでに因果を説いています。 あなたは、「仏が説いたものである」ということは仏教の基準にはならないと考えているのでしょうか。 その場合、誰でも自分勝手な教説を仏教と称してよい、ということになりませんか。 二番目の相対である、大小相対(大乗仏教と小乗仏教)についても釈然としないものがありますね。 釈迦の思想が継承されているとされる小乗仏教(原始仏教、部派仏教)の教えが劣っていて、 それから5世紀ほども後に創作された、釈迦の名を騙った創作経典が優れている、とするのは。 >>699において、 >五重相対は、どんな教え(思想)がどれだけ優れているかの順番付なのだから、説かれた順番は重要な論点にはならない。 これは、本当にそうでしょうか? 五重の相対による教えの優劣を順々に解説していって、最後に、「でも釈迦は法華経を説かなかったんだけどね」となれば、誰でもずっこけます。 「説得力」という点でかなり無理があるのではないか、と僕は思います。 仏典というものが全て、悟りに至るための理論書のようなものであれば、誰が説いていようと内容の優劣だけを問題にすればよいでしょう。 しかし、教判はそもそも釈迦一代で全ての仏典が説かれた、という前提で構築されています。 法華経の中に三乗一乗が説かれているからこそ、それに従って他の経の説く順番や優劣が位置づけられたのです。
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