- 日蓮って ver.28
485 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2014/07/16(水) 01:52:33.75 ID:sPRxd0Ib - >>482
あなたは、教判というものを学ぶべきだな。
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490 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2014/07/16(水) 14:21:37.19 ID:sPRxd0Ib - >>486
破綻? とんでもない。 教判とは、中国に入ってきた様々な経典を統合し作り出された新たな思想。 釈尊の教えが元になって、そこからさまざまな方面に得化した発展の仕方をした。 だが、相矛盾するような記述が増え、どれがどのように正しいのかさっぱり分からなくなり、混乱を引き起こした。 そこで、中国において釈尊の本意はどこにあるか?を基本として経典群を組み立てたのが、各教判。 各教判を組み立てた人が、新たな経典(宗派)を作ったといってもいい。 だから、例えば天台宗が法華経以外の経典を引用する場合は、当然自らの教判にのっとり法華経(天台三大部)を根本として引用するのだ。 >>487 中国に入ってきた経典の中には、最初から後世の記録の性質を持つものはあった。 また、教判を組み立てた前提は確かにほぼすべて釈尊の説であるとするが、これが崩れたからといってまともな教判は崩れたりしない。 なぜなら、教判とはどの思想がどれだけ正しいかを順序立てるもの・どの思想を根本にすべきかを示すものだからだ。 (これは、あなたに向かって過去スレでさんざん主張したから、これ以上はやり取りしない。)
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497 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/07/16(水) 21:07:30.00 ID:sPRxd0Ib - >>494
例えば、哲学で、ソクラテスと弟子のプラトンがいる。 ソクラテスの学説があり、それらを発展させた(あるいは一部異質な)プラトンの学説があり、両者は明確に区別される。 ところが、仏教はこの点が特殊である。 経に限って言えば、ソクラテスの学説も、プラトンの学説も、みなソクラテスの学説・・・・とするのだ。 (乱暴だがあっている。もちろん、例外はある。) そして、具体的に誰が考え出したかには無頓着で、その経典の中身の重要性のみを問題にする。 もし、これが間違った手法というのであれば、今ある経・律は「すべて」失格。 釈尊在世当時に成立したものは、ただの一つもないのだからな。
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502 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2014/07/16(水) 23:10:59.36 ID:sPRxd0Ib - >>499 >>500
ほぼすべての経典の先頭部分には、如是我聞の文字があると聞いている。 そして、訳者の署名はあっても、編者の署名など、まず聞かない。 つまり、経典の成立過程すべてにおいて、具体的な編者が誰であるかには無頓着だったといえるのだ。 (釈尊に仮託して自説を展開した・・・・といえる。) >500 前提はそうである。 しかし、金口の前提が崩れても優れた教判なら教判そのものを崩すことはできないよ…という事だ。 本当に重要なのは、発展した各教典の内容が釈尊(仏)の真意に合致しているか?という事だからだ。
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503 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2014/07/16(水) 23:20:43.72 ID:sPRxd0Ib - >>501
例えば、天台の立場では、釈尊が五百塵点劫の昔に法華経を修業して成道したと読む。 (妙法蓮華経の記述自体では、この部分は「菩薩行」と示されているだけである。) それどころか、十方すべての仏は、法華経を師匠として(修行して)成道したと読む。 ただし、法華経とひとくくりにしてはいるが、法華経にも種類が色々ある。 日蓮大聖人の立場では、法華経ではなく「南無妙法蓮華経=日蓮」がすべての仏の師匠であるとする。(興門派 他は知らん)
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504 :503[sage]:2014/07/16(水) 23:23:30.87 ID:sPRxd0Ib - >>503訂正。
>この部分は「菩薩行」 →この部分は「菩薩道」(を修業した)
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506 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2014/07/16(水) 23:58:40.19 ID:sPRxd0Ib - >>505
日蓮大聖人の立場では、南無妙法蓮華経=日蓮が根本で、他の法華経はすべてこれに含まれる部分法といっていいだろう。 (例えば、南無妙法蓮華経⊃妙法蓮華経 南無妙法蓮華経⊃不軽菩薩の二十四文字の法華経・・・・) 根底にあるものは同じだが。(だから一律に法華経と呼ぶことができる。) >久遠元初頃には法華経の内容は無かったのでありますか? それはおかしな考え方だろう。 具体的に仏が出現していなくても、宇宙を貫く法則性そのものは、消えたり増えたりすることはない。 例えば、現在宇宙の黎明期にはまず重力がはっきりと表れ云云と説明されているが、重力の法則性自体は永遠に存在し続ける。 また、久遠実成と違い、久遠元初はいついかなる時でも久遠元初であることを示す。 例えば、今現在が久遠元初であるといっても間違いではない。
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