- 日蓮って ver.27
65 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/03/11(火) 09:25:55.91 ID:NT2p22GO - >>64
山椒島さんのご指摘は以下の通りです。 ( > 忽ちに頸を刎ねらるべきにてありけるが 子細ありけるかの故にしばらくのびて 「一谷入道御書」(真蹟) > たつの口にて切らるべかりしが いかにしてやありけん 其の夜はのびて依智というところへつきぬ 「報恩抄」(真蹟) これによるなら、日蓮自身も刑が中止になった理由はよく分かっていません。 不可思議な"ひかりもの"であろうと、稲妻・彗星・不知火(人魂)だろうと、もし何かあったのなら、こうは書かないと思います。) そして、“ひかりもの”について具体的に触れた種種書や妙法尼へのご消息は「真跡」でないという理由で斥けておられます。 しかし御書全集四百数十篇の内、真跡はその半分にも満たないものです。 また明治8年の身延の大火によって多くの真筆が焼けてもいます。 この時点で、氏の原典至上主義的態度と私の信心至上主義の態度とは相容れないものだと分かりそうなものです。 さて、そこでです。 あなたは上に指摘された真跡御文から、龍ノ口での“ひかりもの”が「後世の脚色」だと証明できると思いますか? また氏は、何らの信仰をも持たれず、仏教についても「門外漢」だと自認しておられます。 私が氏に対する不信感を露にするのは、当然ではないでしょうか? 一方で、それについての配慮は氏には微塵も見受けられません。 あなたのご見解はいかがでしょう。
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