- 学会の本尊はカラーコピーだった 22
673 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2014/01/26(日) 23:37:07.80 ID:+PKePwG2 - >>670
真筆の御本尊はたくさん存在するし、大御本尊の相貌はすでに記録されている。 他の真筆を根本にしてもよし、そのままコピーしてもよし、誰かが新たに書いてもよし。 どの御本尊でも、正しく敬っている限り御本尊としての効果は変わらないからな。 一番重要なのは、信心の根本を固定し、信心に混乱を生じさせない事。 最も、大御本尊を比較的簡単に失うような信心の在り方がまかり通るようでは、すでにこの信心は滅びていると言えよう。 あなたの論は、天台宗の観念観法そのものである。 天台の観念観法は、自分の中の仏性を感じ取る修行。 これは、像法時代であってもできない人間が沢山いたし、末法の我々には全く役に立たない。 そこで、大聖人はl末法において誰にでもできる修行として、御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱える修行を採用した。 御本尊に表わされた仏性(他の九界も書かれているが。)と、我々の仏性が境智冥合して、我々の仏性が引き出される。 御本尊がなければ、これは不可能である。 (内得信仰においては、皆が根本にしている御本尊がその役目を果たす。) 自分の仏性だけを自分で拝むという事は不可能である。 自分を拝むという事は、九識論のすべてを拝むという事であり、自分の行動・考え・業等をすべて肯定することになる。 これが何をもたらすかは、推して知るべし。
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