- ★★★ 【創価学会のニセ本尊を撲滅せよ】 ★★★
433 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2012/07/23(月) 07:03:04.06 ID:WSFySHOu - >>426
>「木画の二像は本と草木にて有り、然るを生身の妙覚の仏と開眼したもふ事は大事至極の秘曲なり」の御文を挙げたでしょ? > “「南無妙法蓮華経」を書き記すことを「開眼」「魂入れ」”という単純なことなのであれば、わざわざ「大事至極の秘曲なり」とは記さないでしょ? それは31世・日因の言葉であり、大聖人の御文ではないから文証にはなり得ない。 ましてや日因は江戸時代の管長であり、大聖人御入滅から450年以上も経過しており、正しく相伝されたものであるかは慎重な検証が必要。鵜呑みは論外。 そもそも、御本尊も草木からできているのに、なぜ御本尊だけは仏の当体であり開眼を要しないのかという部分の理由については、既に>>346で文証が提示されている。 そこで記されているように、「色心不二」の法理に基づくならば、「仏の御意」という「心法」の顕れが「法華の文字」という「色法」である。 また「法華の文字」は、そのままで「仏の御意」と変ずる。 これが大聖人が示された知見であるから、末法今時の法華経とされる文字曼荼羅については「日蓮がたましひ」そのものであるとの道理が導かれる。 さらに、日因の「大事至極の秘曲」との遺文の中にある「木絵の二像」とは曼荼羅本尊ではなく、宗開両祖の「御影」や画像のことを指すと思われる。 それは上で述べた大聖人の本尊観や、当時、宗開両祖の御影が盛んに造られていた史実を考慮しても、そう解釈する以外にない。 そして25世・日宥が「其の金口相承も五大部三大秘の本尊の妙意に過ぎず」(『観心本尊抄記』)と記しているように、 「三十一代累も乱れず相伝」してきた「大事至極の秘曲」とは、大石寺独自の三大秘法の本尊義を出ない。 ゆえに日因が言いたかったのは、三大秘法の曼荼羅本尊への信解のうえから行う御影や画像の開眼のことであろう。 それは、日因の『木絵二像開眼事講記』に「此の一大事の妙法を以て木絵の二像を開眼し奉り即生身の仏となす」とあることからも首肯される。
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- ★★★ 【創価学会のニセ本尊を撲滅せよ】 ★★★
434 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2012/07/23(月) 07:29:34.07 ID:WSFySHOu - >>426
>「無知無戒である僧侶を間違いがあるといって、僧侶を悩ませることは、仏法の大灯明を消すことだと思いなさい」 > つまり、今の創価には仏法の大灯明が消えて、カラッポということです。 その一節の直前に、「仏法有りといへども僧有りて習伝へずんば正法像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず」とある。 つまりそこに書かれている「僧」とは、“仏法を正しく習い伝えている者”を意味する。 仮に、仏法を習い伝えているつもりでも、誤って習い伝えているのであれば、「正法像法二千年過ぎて末法へは伝はらず」となってしまう。 故に、出家さえしていれば、『四恩抄』に書かれている「僧」になるのではない。 もし、誤った法を説き弘めている出家者がいたとして、その誤りを放置し戒めなければ、その人は与同罪を犯すことになり、「仏法の中の怨」(曾谷殿御返事)となってしまう。 それにしても読みが浅すぎるぞ。一度「僧とは何か」を真剣に考えてみるとよい。
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- ★★★ 【創価学会のニセ本尊を撲滅せよ】 ★★★
440 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2012/07/23(月) 14:40:43.97 ID:WSFySHOu - >>437
> 如何なる謗法者が現れるようとも戒壇の大御本尊をお守りし、伝授・伝承してきた代々の御法主上人猊下が「仏法を正しく習い伝えている者”を意味するね。 「如何なる謗法者が現れるようとも…」とはお笑い。率先して謗法を犯した法主がいたのが否定出来ない大石寺の歴史。 さらに「戒壇本尊の護持継承する者=仏法を正しく習い伝えている者」といった短絡的な結論を導くことはできない。 事実、「管長土屋日柱猊下就職以来何等ノ経綸ナク徒ラニ法器ヲ擁シテ私利ヲ営ミ職権ヲ乱用シ僧権ヲ蹂躙ス」(日蓮正宗宗会での決議文、大正14年11月20日)と断罪され、管長の座から引きずりおろされた者までいるではないか。 ちなみに、現管長・日如は、この日柱管長否定の流れをくむものである。 それなのに、“代々の御法主上人猊下が「仏法を正しく習い伝えている者”を意味する”などと、どういう根拠があって言えるのか。
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