- 【槿惠】李氏朝鮮VS琉球王国10【翁長】 [転載禁止]©2ch.net
588 :マンセー名無しさん[]:2017/05/20(土) 17:54:53.37 ID:dPvThqhh - 従来の琉球史では、琉球弧の文化は沖縄本島から周辺に波及したと考えられた。だが、変化の方向は逆で喜界島→沖縄本島だった。
本土の強い影響のもと、技術と知識で優位に立つ喜界島の人々が沖縄本島に移動し、当地の人々を動かし、沖縄の変化と発展を 促したのだ。喜界町教委で発掘を担当する野崎拓司主査は「この遺跡が発信し、技術や情報が南島全域に広がった」と評し、 吉成さんも「歴史像を一変させた。城久遺跡群の影響はそれほどに大きかった」。 遺跡群の発見前、その存在を予見する論文が歴史学から出た。1987年、鈴木靖民・国学院大名誉教授が古代の史料に みえる南島の朝貢活動から階層化した社会への移行を考え採集経済社会像を描くにとどまる考古学との食い違いを指摘した。 考古学にも卓見はあった。池畑耕一氏(鹿児島県立埋蔵文化財センター=当時)が喜界島を試掘。98年、進んだ土器が 出る半面、在地土器が出ないことから島の特殊性、大宰府との関連を示唆したのだ。高梨修・奄美博物館学芸員は池畑論文を 評価し、吉成さんも「考古学と歴史学の非常に幸福な結びつきだった」と振り返る。 発掘が終わり、総面積約13万平方メートルのうち約6万平方メートルが保存された。今、現地は元の静かなサトウキビ畑に 戻っている。総括報告書も刊行された。ところが、これで終わりではなかった。 遺跡群南方の手久津久(てくづく)地区で、また中国産の高級磁器が大量出土したのだ。時代は14世紀から15世紀の 半ばまでと、城久遺跡群3期と同じ。文献によると、沖縄本島に成立した琉球王国(第一尚氏)がまさにこの頃、 喜界島を何度も攻め、3年でやっと征服した。 発掘した野崎さんも高梨さんも「(尚氏王朝に立ちふさがる)強力な勢力の存在を考古学的に裏付けられるかも」と、 文献史学との次なるコラボに期待している。【伊藤和史】
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