- 【懐疑派】アンチ橘侑希スレ【否定派】
86 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/06/13(水) 15:07:48.48 ID:ZuW6+phx - 一大軍事城塞の寺院・根来寺
https://ameblo.jp/bd20159/entry-12325088753.html この時代の宗教はどこも「武装」していましたが、例えば本願寺の軍事力の実態はというと信徒たちの義勇軍というのが 正解であり、本願寺が「固有の武力」は極めて少数でした。 延暦寺などの「僧兵」にしてもそれはあくまでも「寺院の自衛(という建前)」から作られた側面がありますが、これに対して 根来寺は特に自派の宗旨とは無縁な中央との合従連衡で傭兵活動を行っていた事 そして根来寺自体が城塞そのもの ○鉄砲を本州にもたらす 根来寺は、平安時代後期に真言宗に新義を問えなえた覚鑁が高野山で建立した伝法院から起こり、その後高野山から 分離・独立して、新義真言宗の本山として開山したのが始まりです。 中世以降、隆盛をきわめ、戦国時代には紀州・和泉・河内三カ国に50万石とも70万石とも称する大諸侯でもありました。 根来寺の構成員は主に二つに属しており、 「学侶」 教義や儀式を司る僧侶 「行人」 堂塔の管理や寺院防衛の為の僧兵 前者が一般的に言うところの「聖職者」であり、後者が人数比率で言えば多数派でした。彼らはそれぞれ「杉の坊」 「泉識坊」「岩室坊」をはじめとする多数の子院を構成して、「根来寺衆」という軍事組織を形成していました。 一般的に伝えられる「鉄砲伝来」における鉄砲伝播では、紀州根来寺の杉の坊が津田監物を種子島に派遣して、 1挺を譲り受けたことになっています。それにしても根来寺が何故これほど早く鉄砲に関する情報を入手していち 早く入手したか、という疑問が生じますが、これは紀州の地勢にも関係しているようです。紀州はその地勢から いっても水運による漁業や交易活動が盛んで、そこから海外交易の窓口にもなっていました。そういった海外交易に 従事していた者たちを通して、既に銃器の存在とその情報を入手しえたからこそなしていたかもしれません。 やがてこれにより根来寺は一大鉄砲保有集団として、中央(当時の畿内)で大きな存在でした。ルイス・フロイスは 「日本の諸侯(大名)が都付近において戦うときには、この坊主等(根来衆)を雇用する。彼らは甚だ戦争に巧みで、 常に練習し、火縄銃及び弓矢に達している」(『イエズス会日本年報』)
|
- 【懐疑派】アンチ橘侑希スレ【否定派】
87 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/06/13(水) 15:11:41.01 ID:ZuW6+phx - 2499.秀吉の紀州根来雑賀攻め
https://blogs.yahoo.co.jp/raccoon21jp/41844252.html フロイスの日本史は、当時の膨大な量のイエズス会書簡や報告書のほぼすべてを見得たフロイスが、歴史の流れを意識 しつつ(むしろ神の恩寵を語るべくというべきですが)修正補正も加えつつ少し後になって書き纏めた(といっても数年遅れで ほぼ同時代資料)ものですので、ある種読みやすさがあります。同書第2部67章より趣旨以下。 堺のある和泉の国の南方には「国を挙げて悪魔(偶像崇拝の仏教のことをフロイスはこう呼ぶ)に対する崇拝と信心に専念する」 紀伊の国がつづく。そこには「宗教団体が4つ5つありその各々が大いなる共和国的存在で、昔から信仰が盛んで、いかなる 戦争でもこの信仰を滅ぼせず大勢の巡礼が絶えずこの地に参詣していた」。 1)高野山:3000〜4000の僧侶。弘法大師の真言宗。高野山の頂上にかなりの平地と憩いの場がある。巡礼者は多いが 女人禁制。「その生活は淫猥を極める」。 2)粉河(こかわ):いわゆる補陀落山寺など。高野山より規模は劣るが500余の堂宇伽藍。 3)根来衆:高野山から分離し独自の宗派。他の日本の宗派と全く異なるのは、本務を普段の軍事訓練とし、毎日一本の矢を 作ることが功徳、絹の着物と2本の刀を身に付け世俗の兵士と同じ姿、僧帽は使わずナザレの人のように頭髪を長く背中の 半ばまで結わえて垂れ下げる。諸侯や武将は金を払って彼らをゲルマン人のように傭兵する。根来衆は裕福で日本寺院の なかでも清潔で黄金張りで最も絢爛豪華。巡礼者には懇切丁寧で2,3日間は無料で食事も提供した。 家僕を除き、仏僧だけで8000〜1万人。大部分は下賎の出身だが根来衆となると尊敬を受けた。「不遜な面構えと得体の 知れぬ人柄」(から根来衆は一目して分かったものらしい。)
|
- 【懐疑派】アンチ橘侑希スレ【否定派】
88 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2018/06/13(水) 15:13:16.29 ID:ZuW6+phx - また根来衆については1571年に同地を訪問したカブラル師の書簡が別途ありそこでは↓。
根来衆は2つに分かれ、ひとつは「宗教上の管理権を有する完全な修道者」、もうひとつが「マルタ騎士団のようにただ戦争の ことだけに従事し非常に好戦的で従軍して俸給を受ける。おとな乙名という最年長者十名が居て根来を支配している。婦女子は 根来に入れず女を嫌うこと甚だしく女を知っていると乙名になれない。彼らは剃髪しない。鐘をひとつ撞くだけで3里(レーグア) 範囲から2万5千ないし3万人の戦士が3,4時間で集まる。女がいないので子供は出来ず周辺の地から少年を選んで養子と する。さらに真実を言うと男妾とし死後相続者とする」 4)雑賀:富裕な農民たち、だが軍事教練においては根来衆と同じく武勇好戦的。僧籍はないが一向衆で石山本願寺に忠誠、 信長と対抗したとき石山本願寺には常時7〜8000の雑賀の兵が居た、自前で衣食をまかない海陸の戦いで武器弾薬を補給した。 要衝雑賀は難攻不落だった、二方面は海、残りは紀ノ川と高い山脈に挟まれ、出入り口は一箇所、信長は最初十万、二度目は 7万の兵で攻撃したが失敗。石山本願寺明け渡しの後は顕如とその一族と財産は雑賀に根拠地を移していた。 5)このほか最北部に槇尾:最盛時には坊舎800、寺領3万5千石といわれたが、これは1581年信長が堂塔伽藍寺庵僧坊 経巻一字も残さず焼き払って、すでに存在しない。
|