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名無しさん@お腹いっぱい。
日本人は外交下手

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日本人は外交下手
561 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2017/06/09(金) 14:08:27.37 ID:9FhQCN5g
2009-10-14
ゲンデン首相の悲劇
http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20091014/1255470889
 1932年(昭和7年)、外蒙古(現在のモンゴル人民共和国)はゲンデン首相が就任します。
1935年(昭和10年)、スターリンの命を受けたソ連派がハルハ廟事件を起こし、満州国へ侵入しますが、
ゲンデン首相は隠れ親日家であり、軍に国境線から数キロの撤退命令と不戦命令を出し、戦闘を禁止します。
そして国境確定会議であるマンチューリ会議が開かれます。
 1934年にソ蒙相互援助秘密協定が結ばれており、スターリンはゲンデン首相に公式化を要求しますが、
ゲンデン首相が引き伸ばしたため、スターリンは外蒙古の副首相のチョイバルサンを使い、
日満軍を攻撃(オランホドク事件)し国境紛争によってソ連軍の外蒙古駐留を認めるように圧力をかけていきます。
ソ連としては満州国は脅威であり、外蒙古と満州国が手を結ぶのを恐れており、なんとしても外蒙古を掌握したかったのですが、
ゲンデン首相は抵抗します。またスターリンはラマ僧を一掃するよう要求していましたが、ゲンデン首相は仏教に帰依しており、
これも抵抗の要素になりました。
 1936年(昭和11年)3月、「ソ蒙間友好条約」「相互援助議定書」が締結されます。ゲンデン首相は解任。
国境警備隊を内務省直轄にして親ソ派のチョイバルサンの指揮下になります。

 ゲンデンは1936年7月に逮捕され、拷問をうけ、自分が日本にやとわれえスパイになったと自白強要させられ、
ソ連があらかじめ作成していた112人のリストを共犯者として同意させられました。
この名簿はチョイバルサンに渡され「反ソ反革命日本のスパイ組織参加者」の一斉検挙となります。
 1937年11月、ゲンデンは処刑されます。これよりノモンハン事件が起きるまで2万6千の蒙古人が粛清されたといいます。
外蒙古の人口が80万人ですから、人口の約6%です。いかにすさまじい出来事だったかわかるでしょう。

参考文献
 「ノモンハン事件の真相と戦果」小田洋太郎・田端元共著
 「ノモンハン戦争」田中克彦著
日本人は外交下手
562 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2017/06/09(金) 14:08:50.84 ID:9FhQCN5g
スターリンとモンゴル 1931‐1946 (東北アジア研究専書)
寺山 恭輔 (著) 出版社: みすず書房 (2017/4/8)
https://www.amazon.co.jp/dp/4622085984
内容紹介
ロシアと中国に挟まれたモンゴルは、その歴史を通じて両国と深い関係を有してきた。
17世紀には清朝の版図に組み入れられたが、1911年の辛亥革命で清朝が崩壊する
と独立を宣言した。一方ロシアは、19世紀後半から徐々にモンゴルへの進出を始め、
革命と内戦を経てソ連時代に入るとさらに関与を深めていった。

影響力の大きさは、ソ連国内の政治的傾向がモンゴルに並行的に現れることに看取さ
れる。しかし当初の左派路線は、1932年にモンゴルで大規模反乱が発生すると、スター
リン自身によって否定されるに至る。親ソ政権の崩壊を防ぐためである。さらにその背景
には、満洲事変の勃発と満洲国建国に対する危機意識があった。以後、モンゴルは満洲
国に対する防波堤と位置づけられ、道路、河川、鉄道の整備によって有事への備えが行
われてゆく。1939年のノモンハン事件におけるソ連側の勝因は、この10年がかりの準備
の成果とみなしていいだろう。そして1945年、終戦前の交渉でスターリンが英米中に独立
を認めさせたモンゴルは、ソ連とともに対日戦に参戦。満洲国の崩壊に貢献し、戦後の国民
投票で独立を果たした。


2017/5/27付
スターリンとモンゴル 寺山恭輔著
http://www.nikkei.com/article/DGKKZO16889170W7A520C1MY7000/
 1911年に独立を宣言したモンゴルが、国際的に独立国としての地位を確立したのは45年だった。
反対していた中国が最終的に認めた背景には、ソ連の最高指導者として中国との間に緩衝地帯を設けようとしたスターリ…
日本人は外交下手
563 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2017/06/09(金) 14:09:13.67 ID:9FhQCN5g
2017.5.21
【書評】
『スターリンとモンゴル 1931−1946』寺山恭輔著 対日政策と対蒙支配は連動 
http://www.sankei.com/life/news/170521/lif1705210022-n1.html
 日本にとってのモンゴルとはいかなる存在だろうか。モンゴル人の領土は大きく4つの部分からなり、
北から順にブリヤート・モンゴルとモンゴル人民共和国(現モンゴル国)、満州モンゴルと中西部モンゴルだ。
近代に入ってからこれらの地すべてに関与したのは、日本とロシアだ。ロシアはソ連に変身し、
スターリンがモンゴル人の運命を牛耳ると、日本をめぐる国際情勢もまた一変したことを本書から読み取れる。
 ロシア革命の余波がブリヤート・モンゴル人の地域に到達すると、日本はシベリアに出兵して
反共の防波堤を1918年から22年までに構築した。満州に暮らすモンゴル人は日本の植民地体制に組みこまれ、
中西部のモンゴル人は日本の勢力下で自治邦という国家を創っていた。モンゴル人民共和国は関東軍とノモンハン草原で激突、
45年8月にはソ蒙連合軍を結成して対日戦勝国となった。4つの地に住むモンゴル人が
それぞれ異なる国際関係を作ってきた過去を、本書は主にソ連側の公文書を用いて再現している。
 本書はソ連とモンゴル人民共和国との関係に力点を置いて分析するが、スターリンは全モンゴルの分割統治を実現させ、
それぞれのモンゴルを対日関係に利用した。ソ連の存続と国益を最優先した結果、ブリヤート・モンゴルはソ連邦の一構成員とされ、
モンゴル人民共和国は衛星国でありながらも独立を果たし、内モンゴルと満州モンゴルは中華民国に売り渡された。
4つのモンゴルは3カ国に分割統治されるようになり、これと連動してサハリン南部と千島列島、
それに北方四島も日本からソ連に取られた。
 「日本は敗退しても20年も経てばいずれ復活する」とみたソ連政府が、その見込みに立脚して対モンゴル・対中国政策を
練っていた事実が本書から浮かび上がってくる。無論、スターリンの非情な政策を容認していたのは、
45年2月に米英ソが交わした「ヤルタ協定」の密約である。北方領土問題の解決に取り組む日本も、
過去に関わったモンゴルとの関係について再考する必要があろう。(みすず書房・8000円+税)

 評・楊海英(静岡大学教授)


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