- 【吉田ドクトリン】日本をこんな国にしたのは吉田茂
413 :412[sage]:2017/01/07(土) 08:44:50.09 ID:uImeS5wU - これは野村にすればわたりに舟だが、この18隻を受け取るためには受け皿となる機関を作る必要がある。
つまりのちの海上警備隊(そのあとは海上自衛隊)となるものだ。ところが、警察予備隊を作れという占領軍の 命令さえ面従腹背だった吉田は、これに難色を示した。旧軍人が勢いづくことで自分の地位が脅かされる ことを恐れたからだ。 1年後の9月8日、サンフランシスコで対日講和条約が調印され、7年に及んだアメリカの日本占領が翌年に 終わることが決定した。この講和条約と表裏一体をなす日米安全保障条約の調印式もそのすぐあとに行われた。 その40日後の51年10月19日、マッカーサーに代わって連合国最高司令官になったマシュー・リッジウェイ大将 は吉田首相と直々に会い、18隻のフリゲート艦に加えて50隻の大型上陸支援艦を貸与すると申し出た。 吉田はこの申し出を拒否できなかった。 CIAは野村の選挙対策までしていた サンフランシスコ講和条約が発効した52年4月、アメリカから貸与を受けた艦船をベースに海上警備隊が創設され、 野村の悲願は一応成就したが、その3か月前に、あざとくも韓国は竹島を李承晩ラインの内側に含め、不法占拠を 始めた。吉田が邪魔しなければ、また野村の動きがもう少し早ければ、竹島問題は今日存在しなかったのだ。 野村ら旧海軍関係者はフリゲート艦18隻程度の海上警備兵力で満足する気はなかった。さらに航空兵力も加え、 空母も保有するような本格的海軍に発展させることを望んだ。それがかなえば、竹島問題などおのずからかたが つくはずだった。手っ取り早くこれを達成するには野村自らが総理大臣になるしかない。 そこで54年春、野村は参議院補欠選挙に出馬することになった。 …
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