- 【エジプト・リビア】中東、アフリカの反政府デモ総合 3
105 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/08/04(木) 20:49:44.71 ID:UL9TgIOD - 親シオニストだったトルコ軍の再編 8月4日 by The Truthseeker
http://www.thetruthseeker.co.uk/?p=31398 トルコ軍の首脳部の辞任と多くの将校の逮捕劇は、世俗的軍部とイスラム傾向の強い政府との間の軋轢 以上のものがある。多くのことが、そしてそれが示唆するところのものは、トルコ一国の枠を超えている。 ロイターの記事で書かれていないことは、トルコ軍の首脳部は長いこと親シオニストであったという点である。 だから、「世俗的軍部とイスラム傾向の強い政府」との間の軋轢ということではないのだ。 要するに、これはトルコ軍部の階級内におけるシオニスト・シンパの粛清となっているのである。 勿論、これはエルドアン首相の最初の意図ではなかったかもしれないが、結果的にそうなった。
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106 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/08/04(木) 21:02:52.03 ID:UL9TgIOD - Hasan Cemal コラム:軍はトルコをどうみてきたか 2011年08月01日付 Milliyet紙
http://siyaset.milliyet.com.tr/asker-hep-kocaman-bir-kisla-olarak-gordu-turkiye-yi-/siyaset/siyasetyazardetay/02.08.2011/1421447/default.htm 軍、クーデター、もしくは「後見人たる軍」が、トルコの民主主義が二流に留まった原因であることは 明らかである。今、このシステムが崩れようとしている。トルコは公正発展党政権のもとで、法の優位を厭う このシステムの崩壊とその苦痛を経験している。 軍は、常にトルコを巨大な兵舎と見なしてきた。この兵舎に規律を作り上げようとした。 その中の人間は、一種類の人間になるはずだった。その中の思想は、一種類になるはずであった。 この兵舎の中では全員がアタテュルク主義者となるはずであった。全員がトルコ人となるはずだった。 差異は許されない。この兵舎は動力旋盤のように機能する、まったく同じものを作り出すはずだった。 ハンマーを持つ人は、あらゆる物を打ち込むべき釘と見なす様に、軍も戦車と大砲を使ってあらゆる物を 押しつぶし、新たな形を作りだそうと考えた。自らを救済者だと思っていたのだ。「文民」、とりわけ政治家を 全く信用していなかった。軍の目に文民は「統率のとれていない、ばらばらな集団」として映っていた・・・ 「社会」も野放しにしてはならないものであった。「娘を放っておくと太鼓奏者やらズルナ(木管楽器)奏者に 走ってしまう」という諺のように、社会には常に鞭や武器を持った番人の存在が必要であった。 その番人とは軍であった。軍は社会を常にまったく成長しない子どものように扱った。選挙に反映された 市民の意思を気に入らなかった。国民の票に深い疑心を抱いた。真実は常に軍のみ存在した。 何が正しいか知っているのも軍だけであった。これらから逸脱しないために、政治を赤線で取り囲んだ。 政治を狭い領域に閉じ込めた。「大決定」はいつも軍が下し、「小決定」は政治家に委ねた。 常に政治家を軽んじてきた。市民を「頂上」から見下ろしてきた。
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107 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/08/04(木) 21:04:52.51 ID:UL9TgIOD - 特に1960年5月27日のクーデター後には、自分たちと社会との間に徐々に壁を築いた。象牙の塔を建て、
その中に引きこもった。軍の世界は、特権的な世界であった。自分たちの宿舎あり、サマーキャンプあり、 病院あり、ショッピングセンターあり、軍互助協会あり、安全地帯あり、さらには自らの司法制度を有し、 法廷(軍事裁判所)までも持つ、本当に特権的な世界であった。 この世界に、自らの「ガラスの宮殿」に引きこもってしまったために、軍は社会との関係が断たれ始めた。 世界とトルコにおける、特に冷戦後の「変化」を読むことができなかった。時代遅れの「旧套」を改めることが できなかったために変化を理解できなかった。 そして変化を恐れた。すべてを自らの「旧套」の窓から見ようとし、すべてを自分の「慣例」に基づいて 判断したため、社会的発展や多様化は軍にとって恐怖であった。なぜなら軍の世界は「兵舎」なのだ。 命令が鉄をも穿つ世界なのだ。「動力旋盤」によって作られ、髪の剃り方も服装も考えも単一で、 決して問いたださず、「司令官の仰せのままに」と叫ぶ、イエスマンらの世界なのだ、軍の世界は・・・。 軍は、この「兵舎的秩序の衣」をトルコにも着せようとした。 このため、彼らが引いた「赤線」が踏みにじられたと思ったときには、兵舎で行うのと同じようにトルコで、 一斉清掃を行なった。戦車を進めた。「書簡」を出した。死刑台を作った。政治活動を禁止した。 要するに:選挙の結果を、武器を使って持ち去ったのだ!
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108 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/08/04(木) 21:06:53.21 ID:UL9TgIOD - 一体こんなことが何回起きただろうか。毎回、憲法による規制、または法的規制によって、文民政治の
領域を狭め、自らの「赤線」を濃くし、体制の頂点にたつ自らの立場を強化した。その名は「後見人たる軍」 であった。軍は武装化した政党のように、国家の中の国家のように活動した。選挙でもたらされた文民 権限が統轄し、また統轄しなければならない基本的な事柄もしくは問題を、常にもっとも広範囲に見渡し、 その最終決定を行なうのは参謀本部司令部であった。 こうした体制は長年の間まったく変わらなかった。軍は、クーデター期に司法や大学や文民官僚との 間に築いた―組織的もしくは非組織的な―結びつきによって、政府や国会を常に管理下に置いていた。 言い方を変えると:世界の民主主義国家とは正反対に、トルコでは国家が市民の票によってもたらされる 機関より常に強力であった。この中心には軍がいた、武器を手にして・・・。 クルド問題は軍の「専売特許」であった。キプロス問題における最終決定も軍が出した。欧州連合加盟 における状況もまったく変わらない。9月12日(クーデター)で、高等教育機構とともに大学をあたかも 兵舎体制に変えたのも軍だった。司法制度改革の決定的なボタンを押す、もしくは押させるのはいつも 軍であった。人権と自由の腕や翼をへし折る動きの背後には、常に軍が存在した。 要するに:軍とクーデター―もしくは「後見人たる軍」―が、トルコの民主主義が二流に留まった原因で あることは明らかである。今、このシステムが崩れようとしている。トルコは2000年代に公正発展党政権 のもとで、民主主義と法の優位を厭うこのシステムの崩壊とその苦痛を経験している。
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