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名無しさん@お腹いっぱい。
430
432
★尖閣諸島原油争奪戦が始まった!★

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★尖閣諸島原油争奪戦が始まった!★
429 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/15(土) 00:07:26 ID:HXRGYj6O
>>210 >>211-213

ロシア語に「奴は中国人百人分くらい狡い」という言葉がある

 中国と地続きで国境を接する14の隣国の中でも、「パートナー」としてうまく付き合っているように見えるのがロシアだ。
近年、国境紛争地帯を両国で分割統治するなど数々の懸案を解決し、北方領土や尖閣問題では、両国が連携して
日本を牽制している。だが佐藤優氏によれば、そこには「信頼」や「友情」とは別のものが隠れているという。

******************************
 ロシア人の中国に対する警戒心と嫌悪感は国民の草の根レベルまで浸透している。

 これには、歴史的背景がある。ロシア語では中国のことを「キタイ」という。この語源は10世紀に現在の中国北部に
「遼」という国を建国した遊牧民族「契丹」だ。ロシア人は、中国が契丹のように国境を越えて侵略してくるのではないか
という恐れを持っている。

 日常語でも、悪性のインフルエンザを「中国風邪(キタイスキー・グリップ)」という。また「あいつは中国人百人分
くらい狡い」という表現があり、卑劣な人間を罵る時に使う。現在、ロシアと中国は「戦略的パートナー」であるが、
ロシア人の感覚からすると「戦略的(ストラテギーチェスキー)」とは、「お互いに後ろから斬りつけない」
「人前でつかみ合いの喧嘩をしない」程度の意味だ。

※SAPIO2010年11月10日号
ttp://news.nifty.com/cs/world/worldalldetail/postseven-20101030-4461/1.htm
★尖閣諸島原油争奪戦が始まった!★
430 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/15(土) 00:08:42 ID:HXRGYj6O
SAPIO 2010年11/10号
ttp://www.shogakukan.co.jp/magazines/detail/_sbook_2300211110
7 7 隣国の知恵 嫌悪しながら「戦略的パートナー」を演じるロシアのしたたか外交戦術を中国にぶつけろ/佐藤優

(略)

 1960〜80年代初頭まで、ソ連と中国は激しく対立した。特に1969年、ウスリー河の中洲ダマンスキー島
(中国名珍宝島)での中ソ国境紛争は事実上の戦争だった。この紛争で双方にどの程度の被害があったかに
ついては、いまだ明らかになっていない。

戦争をすれば「絶対に勝つ」ということを相手に教える

 1999年3月2日朝日新聞朝刊がこんな報道をした。
<ダマンスキー島事件、旧ソ連側にも多数の死傷者
【モスクワ1日=大野正美】旧ソ連と中国が領有をめぐって激しい武力衝突を演じた一九六九年のダマンスキー島
(中国名・珍宝島)事件から三十周年になるのを機会にロシア国境警備局は一日、中国側に多数の死傷者が出た
とされてきたこの事件でソ連側にも死者四十八人、負傷三十五人という大きな被害が出ていたことを明らかにした。
 インタファックス通信によると、当時のソ連国境警備隊には島のあるウスリー河の氷上に弾薬を一組しか持って
いけない規則があった。このため三月二日朝に約三十人の中国兵が島に現れた時、八人のソ連側守備隊は十分に
反撃できず、応援した別の守備隊と共に同日中にはほぼ全滅してしまった。
 ソ連側が正規軍も加わって本格的に反撃したのは中国兵が再び島に現れた十四日で、三日間激しい白兵戦を
続けた後、十六日に中国領に猛烈な砲撃を加えて戦闘は終わったという。
 ダマンスキー島はソ連が実効支配を続けた後、国境交渉で中国に移管された>
★尖閣諸島原油争奪戦が始まった!★
431 :430[sage]:2011/01/15(土) 00:09:43 ID:HXRGYj6O
 筆者がモスクワに出張した時、SVR(露対外諜報庁)の幹部からこんな話を聞いたことがある。
「ダマンスキー島に駐屯していた十数名のソ連国境守備隊は、KGB(国家保安委員会)に所属していた。中国側の
不意打ちで、ソ連守備隊は全滅した。ソ連は正規軍を投入し、ダマンスキー島の中国人を皆殺しにし、
ソ連がこの島を実効支配した。そして、ソ連崩壊後、中露国境交渉で、ロシアはこの島を中国にくれてやった。
あんな奴らと共同支配をしても碌な事にはならないからだ。
 戦争をすれば絶対にロシアが勝つということを教えた上で、島をくれてやる。こういうやり方が中国との関係で
ロシアの安全を保障するためにいちばんよいのだ」
 ロシアは帝国主義国だ。まず一方的にロシアの利益だけを主張する。それに誰も異議を申し立てないならば、
ロシアの権益を拡張する。相手国が抵抗し、国際社会もロシアに対して批判的になり、このままごり押しを続けると、
結果としてロシアが損をすることが明らかになった時にだけ、国際協調に転じる。
(略)
 ロシアが「第二次世界大戦終結の日」という名称で、事実上の「対日戦勝記念日」を制定しても、日本政府は抗議し
なかった。また尖閣諸島沖・・・釈放してしまった。この問題を巡る日中関係の緊張をロシアは最大限に利用している。
 特に9月27日、北京でメドベージェフ大統領と・・・
(略)
(略)中露両国が戦勝国の立場で連携し、北方領土問題、尖閣問題における日本の動きを牽制している。もっとも、
これでロシアが日本よりも中国を「友好国」と見なすようになったということではない。ロシアは自国の利益に役に
立てば、ある時は中国、別の状況では日本を使う。それだけのことだ。
★尖閣諸島原油争奪戦が始まった!★
432 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2011/01/15(土) 00:10:30 ID:HXRGYj6O
中ソ国境紛争(ダマンスキー島事件)
ttp://35015354.at.webry.info/201007/article_16.html
緊張と衝突  1950年代後半のニキータ・フルシチョフ首相によるスターリン批判以降、ソビエト連邦と
中華人民共和国の間では関係が悪化していました。中ソ対立により両国間の政治路線の違い・領土論争を
めぐって緊張が高まり、1960年代末には4,380kmの長さの国境線の両側に、658,000人のソ連軍部隊と
814,000人の中国人民解放軍部隊が対峙する事態になりました。在北京ソビエト連邦大使館に対する紅衛兵の
襲撃や、国境地帯での発砲事件など両国の小規模な衝突は度々起きていたものの、本格的な軍事衝突は
起きないままでいました。
1969年3月2日、極東のウスリー川の中州・ダマンスキー島(珍宝島)で、ソ連側の警備兵と中国人民解放軍兵士
による衝突が起こりました。これに関しては双方とも「先に相手が攻撃を仕掛けた」と主張しています。
戦闘で31人の死者と14人の負傷者を出したソ連軍は、中華人民共和国東北部国境に展開している中国人民解放軍
に砲撃を行い、ダマンスキー島に部隊を突入させました。ソ連側はこの攻撃で80人の死傷者を出し、
中華人民共和国側に死者800人の損害を与えたとの記録が残っています。またソ連側によると、
中国人民解放軍部隊が民間人・農民・家畜に部隊を囲ませながら前進する戦術を取ったといいます。
中華人民共和国側の記録にはソビエト軍に大きな損害を与え、自軍の死者はごく少なかったとあります。
なおこの時、少なくとも1輌のT-62が中華人民共和国側に鹵獲されています(中華人民共和国はT-62を1輌公開
しています)。
7月8日には中ソ両軍が黒竜江(アムール川)の八岔島(ゴルジンスキー島)で武力衝突し8月にはウイグルで
衝突が起きるなど、極東及び中央アジアでの更なる交戦の後、両軍は最悪の事態に備え核兵器使用の準備
を開始しました。こうした最中、1969年9月に北ヴェトナムのホー・チ・ミン国家主席が死去し、
ソ連のアレクセイ・コスイギン首相はハノイでの葬儀に列席した後北京に立ち寄り、中華人民共和国の周恩来首相
と会談して政治解決の道を探り、軍事的緊張は緩和されました。国境問題は先延ばしされましたが、
最終的な解決には至らず、両国とも国境の兵力配置を続けました。
★尖閣諸島原油争奪戦が始まった!★
433 :432[sage]:2011/01/15(土) 00:11:15 ID:HXRGYj6O
背景  こうした中ソ間の国境紛争は、アイグン条約や北京条約など、19世紀にロシア帝国が清から領土の割譲
を受けていた時代に作られた条約に、河川上の国境画定に関して不備な部分が多いことが原因でした。
このため中央アジアから極東に至る中ソ国境各地に帰属の不明な部分が多く、中ソ間の見解は一致していません
でした。満州国時代にも乾岔子島事件や張鼓峰事件などの紛争が起きていました(日ソ国境紛争)。
また中華人民共和国側には、帝国主義の時代に不当に領土が奪われたという被害者意識があり、
ソ連側には人口の多い中華人民共和国に対する恐怖がありました。
なお、この武力衝突は文化大革命の最中における毛沢東一派の外国に対する強硬政策の一つと言われますが、
同時に、近世以来のロシアにおける「南下政策」の一つであるとも言われます。

2008年7月21日、中露外相が北京で東部国境画定に関する議定書に署名し、中露国境は全て画定しました。
同年10月14日、同議定書は正式に発効しこれを以って中露国境線は正式に確定しました。同領土交渉で
対象となった3つの島は何れもロシア側が実効支配をしていることから、ロシア側が大きく譲歩した面が目立ち、
交渉経緯が断片的にしか伝えられていない事実がそのことを如実に物語っています。


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