- 【国連】竹島不法占領非難決議可決 4【安保理】
52 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2010/12/14(火) 00:39:05 ID:s/S0HMyk - 朝鮮半島東岸から、一島であるはずの鬱陵島が二島であるように見える?
ttps://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/Home/ulleungdo-can-be-seen-as-two-island-from-eastkorea > すると、いくつかの条件において、本来一島であるはずの鬱陵島が二島に見える場所があることが確認された。 > また、地図によっては、鬱陵島-三陟の東 于山島-平海の東との説明がなされているので、ひょっとすると三陟から > 見える鬱陵島と平海から見える鬱陵島の大きさ、姿が違っていて是を別々の二島と勘違いして認識していた可能性 > もありうる。 > つまり134m附近で標高が高い部分の鬱陵島の山峰はみえるが、下部が見えない > しかし500m附近に上げてシミュレーションしてみると、鬱陵島の下部が見えるようになる。 > この下部は、海東総圖にも書かれているような、別の小さい島が有るかのようにも見える > 鬱陵島116Km北の海上から鬱陵島をみた場合のシミュレーション > 鬱陵島の北116Km地点の海上から鬱陵島を眺めると、大きな鬱陵島が、北からみて左側即ち東にみえ、 > 小さい小島が北から見て右側即ち西側に見える。 > Kangnung江陵からUlleungdo鬱陵島を眺めた場合のシミュレーション > (左)標高300m附近あたりで一島であるはずの鬱陵島が双子の島であるように見える。 > (下)標高400m附近で南(右)に小島、左に大きい島二島といった形に見える。 > 次に、いかに、特徴的ないくつかの地図を見てみる。朝鮮の古地図で、主に1694年以前の認識に基づいた、 > つまり于山島が鬱陵島の西側にある島、もしくは一島二名を示すものについては、以下のような地圖がある。 > 之を考慮して考えてみた。
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- 【国連】竹島不法占領非難決議可決 4【安保理】
53 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2010/12/14(火) 00:40:34 ID:s/S0HMyk - 【竹島】 「韓国側が竹島の古い名称と主張する于山島=竹嶼」を文献で初めて実証〜朝鮮王朝の官撰「日省録」から [01/19]
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1200722137/ 文献は、一七六〇−一九一〇年の朝鮮王朝の国政全般を記した官撰(かんせん)の「日省録」。 韓国で竹島問題を研究する米国人ゲーリー・ビーバーズ氏(52)が、インターネット上で発表した。 日省録の鬱陵島周辺を調査した役人による一八〇七年の報告書の中に、鬱陵島の北に于山島があり、 周囲は二、三里(韓国里で八百−千二百メートル)、との内容を示す「北有于山島周回為二三里許」の 記述があった。 鬱陵島周辺でそれだけの周囲があるのは、同島の北東に隣接し、南北七百メートルに及ぶ細長い竹嶼のみ。 竹島は鬱陵島から九十二キロ離れた南東に位置し、ビーバーズ氏は「于山島は鬱陵島の隣接島(竹嶼)としか 考えられない」と結論付けた。
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54 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2010/12/14(火) 00:41:35 ID:s/S0HMyk - 鬱陵検察使の地図
ttp://outdoor.geocities.jp/yabutarou01/1.html ソウル大学奎章閣 鬱陵島圖形 1711年 朴錫昌作 ttp://outdoor.geocities.jp/yabutarou01/2086429772_c59068652f.gif ttp://outdoor.geocities.jp/yabutarou01/img1.png この地図は一七一一年、鬱陵島検察使の朴錫昌らが鬱陵島に渡った際に作成した地図です。 この地図は鬱陵島の東側に『海長竹田所謂(いわゆる)于山島』と書かれた島が存在することに特長があります。 ほとんどの鬱陵島の古地図には鬱陵島の東側に于山島が描かれていますが、この地図には『海長竹田』と于山島 がどのような状態の島なのか判断できる記述があるのが目を引きます。これによって私たちは于山島が竹島(独島) なのか竹嶼なのかをはっきりと見分けることが出来ます。『海長竹』とは日本では女竹と呼ばれる竹の一種で、 一般的には海蔵竹と表記します。『田』とはここでは草木が密集して生えている状態を指します。したがって、 『海長竹田』とは『海長竹が密集して生えている場所』もしくは『海長竹の竹林』といった意味です。竹嶼が竹嶼と 呼ばれるようになったのは竹嶼に竹が生えているからであるというのが韓国の専門家の一致した見解であり、 江戸時代に日本人が描いた鬱陵島の地図である『小谷兵衛より差出候竹嶋之絵図』にも現在の竹嶼にあたる 「まの嶋」には竹林が絵で描かれています。実際今でも竹嶼にには竹が密集して生えています。 一方1876年の『日本海内竹島他一島地籍編纂方伺』に「樹竹稀なり」とあるように竹島(独島)に竹が生えていない とする記録が複数存在し、なおかつ現在の竹島(独島)に竹が生えていないことは韓国人も認めています。 したがってこの地図に描かれている于山島が竹嶼であることに疑いの余地はありません。 http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1282529293/77-79
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55 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2010/12/14(火) 00:43:47 ID:s/S0HMyk - 内務省の通達 in 1877
左の資料は、内務省が1877年3月20日に出した通達で、鬱陵島とほか一島が朝鮮の領土であることが明記されている。 韓国は、ここに載っている、「竹島外一島」の"外一島"を竹島(獨島)であると主張しているが、その論拠となる 積極的な証拠は無い。同年文部省が発刊した『日本全図』には現在の竹島はなく、アルゴノート島(竹島)と ダージュレー島(松島)があるのみである。文部省のみならず2年前に陸軍参謀局が調査した図にも、 アルゴノート島(竹島)とダージュレー島(松島)の記載があるのみなので、「外一島」が現在の竹島でない のは明白である。 軍艦「天城」の調査 in 1880 日本政府は、混乱した鬱陵島周辺を調査し確認するため、外務卿の寺島宗則が1880年7月、軍艦「天城」を派遣した。 そして当時誤って「松島」と称せられていたのが、古来の鬱陵島であることが確認された結果、その後の刊行に かかる海図では、一貫して鬱陵島に該当する島を「松島」、今日の竹島に該当する島を「リアンコールト岩」と称した。 ここに、昔竹島と呼ばれていた鬱陵島が松島となり、松島と呼ばれていた島がリアンコールト岩となるのである。 松島が竹島と島名が変更した原因の一つがここにある。もし西欧の誤った地図が日本に逆輸入されなければ、 我々は現在も竹島を松島と呼んでいただろう事は想像に難くない。(この調査後、外務省書記官の北澤正誠が 竹島考証(上)(中)(下)を著した。 ttp://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/5occupation.html
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- 【国連】竹島不法占領非難決議可決 4【安保理】
56 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2010/12/14(火) 00:45:10 ID:s/S0HMyk - 1899年9月23日 - 皇城新聞記事「鬱陵島 事況」
ttp://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/05/1899923.html 以下は、韓国皇城新聞1899年9月23日の記事、「鬱陵島 事況」の私の訳です。 この記事は竹島・独島論争において、最初の次の2行があるので特に重要です。 > 蔚珍の東の海中に鬱陵と呼ばれる島が一つある。その付属の小六島のうち、もっとも顕著なものは、 > 于山島竹島である。 この2行が、竹島論争において特に重要な理由は、鬱陵島の附属島のうち代表的な(最著)島を于山島竹島という 二つの名前を列記して表している点です。つまり、1899年のこの記事は、「鬱陵島の附属島のうち代表的な(最著)島は、 竹島《日本名竹嶼)という鬱陵島の東沖約2キロに浮かぶ島で、その島は別名于山島である。」と意味している と考えられます。このことは、于山島が現竹島(Liancourt Rocks)の古名であるとの韓国側の主張を、 またもや否定する証拠であると言えます。 ところが韓国の歴史学者は、問題の箇所は一つの島を二つの名前で表現したのではなく、二つの別個の島を 表していると主張しています。つまり、「附属小六島のうち、最も顕著なものは、于山島と竹島(日本名竹嶼)である。」 という意味だというのです。しかし、 "于山島竹島"を"于山島と竹島(竹嶼)"と訳すことの問題点は、 この記事は 他の部分では名詞を羅列するときには、"と (?/?) "や読点(、)がよく使われているのに、"于山島竹島"では "于山島と (?/?) 竹島"のように、二つの名称を分割するための言葉"と (?/?) "が使われていないのです。 "于山島竹島"が2つで無く1つの島を指していることの更なる証拠として、鬱陵島を韓国の江原道の郡の一つに定めた、 1900年の大韓帝国勅令第41号が挙げられます。その中では、竹島(竹嶼)は鬱陵島の附属島のひとつとして 挙げられていますが、于山島は名前がありません。そのことはつまり、于山島が単なる竹島(竹嶼)の別名である ことを示唆しており、韓国の古地図や古文献でもそのことが確認できます。
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