- 【国連】竹島不法占領非難決議可決 4【安保理】
39 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2010/12/11(土) 07:13:16 ID:+Ufa1/TY - WR2204日中戦争の問題点を検証する44号051014岡崎
ttp://home.att.ne.jp/iota/okd/world-reader/renasci/history/okazaki-051014.html 韓国政府や両班たちは実は魂胆があった。 自分たちが頼みにしていた清が凋落する一方なので、ロシアに寄りかかろうとしていた から、日露戦争でロシアが勝てば属国となってお金を貰えると思っていたのである。 贅沢好きの閔妃の時代からロシアに取り入り、関税権をロシアに売っていた。 1896年(明治29)5月のロシア皇帝ニコライ2世の戴冠式に閔泳煥を特命全権大使 として派遣し、「朝露密約」でロシア政府からの援助を取り付けている。 李朝政府は軍事・経済すべてについてロシアの言うとおりにするという密約である。 親露内閣が成立し、ロシア公使館が朝鮮の中心となった。高宗はその後も1年余りに わたってロシア公使館に滞在し、すべての政治はロシアの掌中にあった。日本人顧問 や、日本人軍教官は全員が解任され、ロシア人顧問や、ロシア人軍教官と交替した。 高宗は翌年2月ロシア公使館を出て、国号を大韓帝国と改めるとともに皇帝を称した。 ところが日露戦争が始まってみると日本が緒戦に勝利した。 するとたちまち韓国政府は態度を親露から親日に一変させ日韓議定書が結ばれた。これ により日露戦争遂行上必要な便宜と土地の提供を韓国に義務づけ、韓国政府は日本の承 認なしに第三国との条約を締結できないことが定められた。さらに8月第一次日韓協約 を締結して、韓国政府は日本の推薦する財政・外交顧問を置くことを認めた。 一方、高宗は日本の影響力をあくまでも排除しようと試み、日露戦争中においてすら ロシアに密書を送るなどの密使外交を展開していった。
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- 【国連】竹島不法占領非難決議可決 4【安保理】
40 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2010/12/11(土) 07:15:20 ID:+Ufa1/TY - 1905年のりゃんこ島(現竹島)編入後、韓国側から外交上抗議はなかった。
ttp://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/Home/1905-02-22-lianocurtrocks-takeshima リャンコ島、つまり現竹島の漁業活動は日本人漁業者によって始まり、ようやくその頃韓国人も現竹島を知るよう になるが、大韓帝國がこの島を実効支配した事は無かった。其頃の漁業に関する記録には韓国が現竹島を 実効支配した形跡は無い上、韓国の東限が描かれた地誌、および鬱陵島の範囲の認識に現竹島も含まれて いないのである。 まず、韓国側は、竹島編入を「秘密裏」に編入したと主張するが、これは大きな間違いである。秘密裏に主張する のであれば、1905年4月15日発行の地学雑誌196号で既に「帝国新領土竹島」が記載されているからです。 これが発売されているとなると、「編入を秘密にしていた」事にはなりません。 また、韓国側は、「日本に外交権を掌握されているので日本の竹島編入を抗議できなかった」、と主張するが、 大韓帝國は、現に日本に対して、正式に数度抗議をしている証拠がある。 また、第二次日韓協約は、韓国が 日本を除く第三国との外交権を日本に委任する性質のものであるが、日本と韓国との(外交)交渉・条約に関しては 特にそれを禁止するような性質の条約ではない。上、 1905年12月に韓国統監府が設置されましたが、 統監府と韓国政府との間では定期的な意見交換の場が設けられていました。 ttp://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=17366 ttp://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=17368 之のみでならず、この時期、大韓帝國は以下のように、日本に抗議を実施しているのである。 1.1905年10月17日報道によると、1905年8月12日の第二回日英同盟協約第三條の条文について、大韓帝国の 朴斉純外相がこれを非難し、駐韓イギリス公使と日本公使に抗議している。(詳しくは「極長日記」が詳しいので そちらを参照のことl) (日本が韓国に通達したのは1905年10月05日) 2.1906年02月27日〜04月27日、蔚珍の元燈台用地売買に関して、正式に日本側の統監府に抗議して、 承認させている(詳しくはDokdo-or-takeshimaを参照のこと)。
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- 【国連】竹島不法占領非難決議可決 4【安保理】
41 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2010/12/11(土) 07:16:56 ID:+Ufa1/TY - つまり、竹島編入についても、これら上述の通り韓国は十分に抗議できる立場にあったわけであったが、
しかし、日本の竹島編入に関しては、そのような正式な外交上の抗議をしたという記録はないのである。 韓国側は、「抗議ができなかった」証明を一切していない。 10.「日本,1905年現竹島強制編入」というのは歪曲 ttps://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/Home/koreanpropagandapdfdistorture/10-1905-02-22-incorpoted-of-takeshima-without-diplomatic-claims-from-korea このように、現竹島編入に対する韓国人の騒ぎは、当時も反日活動の一環だったに過ぎかったのである。 それ故、大韓帝國政府は、抗議できる立場にあるにもかかわらず、一切抗議していなかったのである。 Retriever Legend's blog: 竹島 その1 ttp://pub.ne.jp/dogyamat/?entry_id=1532896 明治三八年(1905年)10月17日発官報『第384号』 英国公使は、韓国外部大臣より公文を以て、英韓両国間には積年の深厚なる友誼存続するに関はらず、 此次英国政府が日本との間に訂立せる同盟條約中、韓国の地位に関して規定する所は、 従前の約旨に違反する不当の條約なりとの旨意の照会を受けたる(原文未確認、孫引き) 第二次日英同盟第三条の条文について、大韓帝国の朴斉純外相がこれを非難し、 駐韓イギリス公使と日本公使に抗議している内容が書かれています。 1905年02月22日の竹島の編入決定時には、韓半島は異議申し立ての外交権の行使が可能であったと言えます。 韓半島が主張することには、根拠がないことになります。 朴斉純の抗議 ttp://ameblo.jp/dreamtale/entry-10005290481.html (1905年8月12日の第二次日英同盟第三条の条文について、大韓帝国の朴斉純外相がこれを非難し、 駐韓イギリス公使と日本公使に抗議している。つまり、竹島編入についても、この時期韓国は抗議可能であった。)
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