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竹島年表
名無しさん@お腹いっぱい。
【国連】竹島不法占領非難決議可決 4【安保理】

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【国連】竹島不法占領非難決議可決 4【安保理】
14 :竹島年表[sage]:2010/12/10(金) 02:25:16 ID:r613LTOK
1145        「三国史記」<十三年(512)夏六月、于山国帰服>干山国、・・・或いは名、鬱陵島≠現・竹島
1471        「成宗実録」<于山、武陵二島・・・>半島南端・江原道からの視線であり≠現・竹島
1438        韓国、鬱陵島に空島政策を始める。(以降450年)
1481        「東国輿地勝覧」<一云武陵 一云羽陵・・・>砂浜・樹木が見える、干山鬱陵本一島≠現・竹島
            ※「于山國」=「大きな山国」(“于”=“大きい”の意)、「鬱陵島」=「ぜいたくで大きい丘の島」
              (“鬱”=“ぜいたくであること”、“陵”=“大きい丘”の意)で、「于山國」=「鬱陵島」
1614        「芝峰類説」日本人が鮑・若布(ワカメ)採取目的で磯竹島(鬱陵島)の占拠を始める
1617        米子の回船問屋が鬱陵島を発見。
1618(元和4年)  大谷・村川両名に幕府から竹島(鬱陵島)へ渡海免許。(「竹島渡海由来記拔書」)
           以降80年日本が鬱陵島を実効支配。
1643        鬱陵島に続き、現・竹島も発見。以降、現・竹島を鬱陵島渡航への寄港地、漁労地として利用。
           遅くとも1661年には大谷、村川両家が幕府より現・竹島を拝領。
1656        『輿地志』に「一説に于山、鬱陵本一島」。現・竹島の記述なし。
1667        隠岐島巡察報告「日本の乾(北西)の地、此の州を以て限りと為す」鬱陵島北限で現・竹島日本領
1684~1767    朝鮮の木版印刷の古地図の「江原道図」が鬱陵島のすぐ南側に「子山」と記載。子山≠現竹島。
【国連】竹島不法占領非難決議可決 4【安保理】
15 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2010/12/10(金) 02:26:05 ID:r613LTOK
1692(元禄5)   大谷、村川家らが、「竹島(鬱陵島)」に出漁してきた朝鮮人漁民と遭遇。
1693        日本船が朝鮮漁民2人を連行(安龍福事件)。安の「松島は即ち子山島」虚言がのちに韓国史実化。
           安の密漁を機に朝鮮では三年に一回、捜討使を欝陵島に派遣、捜討使が1771年『欝陵島図形』提出
1694       張漢相「蔚陵島事蹟」に「東望海中有一島杳在辰方而其大未滿蔚島三分之一不過三百餘里」
          <東南三百餘里以内に鬱陵島の三分の一程度の大きさの島がある>の記述。現・竹島を指してると
          思われるが、すぐのちには「登島山峰審望彼國之域則杳茫無眼杓之島 其遠近未知幾許」
          <島の山峰を登って彼の国(日本)の域を望んだら、遠近は幾何か知れない(程)遠い「杳茫(遥かに
          遠く)眼杓(目立つ・目標となる)島はない>(安龍福事件の翌年)事件で現・竹島の存在を聞き及んで
          か、島名も記さず言及しているが、再度見ることはできていない。
1696        幕府「竹島(鬱陵島)」渡航禁止(「竹島一件」1692~)。鬱陵島韓国領で決着、現竹島は論争外。
1697[2/14]    朝鮮政府が安龍福の日本侵犯を謝罪「至於漂風愚民 設有所作爲 亦非朝家所知」
          <(安龍福は)漂風の愚民に至りては、設ひ作為する所あるも、朝家(朝鮮政府)の知る所に非ず>
   [3]      朝鮮政府、「呈書のことについては誠に妄作の罪あり」と文書で日本に通告し、安龍福を流刑に。
1699       王朝記録「粛宗実録」を基に鬱陵島探査した官製地図「鬱陵島図形」(1699版)が、
          「竹嶼」の位置に「大于島」、「観音島」の位置に「小于島」と記載。
【国連】竹島不法占領非難決議可決 4【安保理】
16 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2010/12/10(金) 02:27:27 ID:r613LTOK
1702       「鬱陵島図形」(1702版)、1699版に同じ。朝鮮王朝の認識では鬱陵島の属島は「竹嶼」と「観音島」
1711       鬱陵島検察使の朴錫昌らが鬱陵島に渡った際に作成した地図「鬱陵島圖形」(1711版)では、
          陵島の東側に『海長竹田所謂(いわゆる)于山島』と書かれた島が存在。『海長竹田』とは
          「海長竹の生えている場所」であり、この地図において、于山島=竹嶼(チクトウ)
          その後、『海東地図』、『廣輿図』『輿地図』『八道輿地図』『地乗』等も踏襲、
          『東国輿地勝覧』系譜の于山島像は修正され、それが朝鮮の近代にまで及ぶ地理認識に。

宝暦年間1751-1763 「竹島図説」に「隠岐国松島」から40里に「竹島」と記述。現・竹島は隠岐の国に属していた。

1769       「英祖実録」「承政院日記」に、英祖王が提調・元仁孫に鬱陵島絵図の提出を命じたが、
          現・竹島を「日本山」と記し、日本領とみなしている。視認不可能のため「日本山」の地図記載を見送る。
          「日本山望見者, 亦書標以入, 可也。」「仁孫曰, 鬱陵島地圖入之, 而日本山則無所望見, 故不爲畫矣。」
【国連】竹島不法占領非難決議可決 4【安保理】
17 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2010/12/10(金) 02:28:17 ID:r613LTOK
1770        『旅菴全書』「彊界考」の<按ずるに、輿地志に云う、「一説に于山、鬱陵本一島。」而るに諸図志を
           考えるに、二島なり。一つは則ちその所謂松島にして、蓋し二島は倶に是れ于山国なり。>を底本
           に、『東国文献備考』「輿地考」が <輿地志に謂う、鬱陵、于山皆于山国の地。于山は即ち倭の
           所謂松島なり>安龍福事件(1693)で、<安龍福証言「松島即ち于山島」>の曲解証言(『粛宗実録』)
          で知った、「松島」名を古来の『輿地志』の于山に強引に結びつけたものと思われ。もともと松島
          (現・竹島)所在が未把握だから「松島」「竹島」名は鬱陵島付属小島(現竹嶼)に収斂され「松竹島」に。
           長久保赤水「日本輿地路程全図」。「隠州視聴合記」からも引用。長久保は鬱陵島を日本領と誤認。
1785       林子平「三国通覧輿地路程全図」。「竹嶋」を<朝鮮ノ持也>。当時の竹嶋は鬱陵島のこと。
1787        フランス船が鬱陵島を発見。ダジュレー島と命名。89年イギリス船も発見しアルゴノート島と命名。
           同じ島だが経緯度の違いで別の2島化。日本寄りにダジュレー、朝鮮寄りにアルゴノート島となり、
           ダジュレーが松島に、アルゴノートが竹島に。1854ロシア船の測定でアルゴノートが不正確と判明。
           1849フランス船[リアンクール]号竹島を発見。54年ロシア、55イギリス[ホーネット]。一時3島併存。
           1870年代アルゴノート消滅。1900年代ダジュレー(or松島)、リアンクール(orホーネット)で確定。
           シーボルトがダジュレーを松島、アルゴノートを竹島にしてたが、アルゴノート消滅で竹島も消える。
1801(享和元年) 「長生竹島記」にも、松島をもって「本朝西海のはて也」
【国連】竹島不法占領非難決議可決 4【安保理】
18 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2010/12/10(金) 02:29:35 ID:r613LTOK
1807        朝鮮王朝の国政全般(1760-1910)を記した官撰の「日省録」に、鬱陵島周辺調査報告。
          「北有于山島周回為二三里許」(鬱陵島の北に于山島があり、周囲は二、三里(韓国里で800-1200m)
          よって、于山島=竹嶼(鬱陵島北東で南北700mの竹嶼) ※現竹島は南東92km
1820       高田屋嘉兵衛の北前船が竹島と松島の間を航路として使用しているとの記述
          (「石見外記」浜田藩儒・中川顕允が編纂)
1828(文政11年) 江石梁編述「竹島考」が現・竹島に関する、かつてより更なる詳細描写。
1836(天保7)   浜田藩御用商人・会津屋八右衛門による竹島での密輸事件(竹島事件)で、死罪申し渡し書に
          「松島への渡海の名目を以って竹島へ渡り・・・・・・」松島(現竹島)への渡海は依然可能。
          また浜田藩主松平周防守康任が「竹島は日の出の土地とは定め難いが松島なら良い」としている。
1849(嘉永2年) フランスの捕鯨船リアンクール号竹島を発見
1858        ロシア、愛琿条約で清国から黒龍江以北の地を奪う。
1860        ロシアが北京条約で沿海州獲得。
1861        ロシア軍艦が対馬を占領。英国の抗議で撤退。樺太・千島・北海道にも触手。
1867        勝海舟編纂の「大日本国沿海略図」は3島併存。
           アルゴノート(竹島=架空の島)、ダジュレー島(松島=鬱陵島)、リアンクール(現・竹島)。
※以上、誤解から混乱が生じたため、文献上の島名の取り扱いには注意が必要。


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