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名無しさん@お腹いっぱい。
【吉田ドクトリン】日本をこんな国にしたのは吉田茂

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【吉田ドクトリン】日本をこんな国にしたのは吉田茂
82 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2010/10/29(金) 19:16:49 ID:jcUfe2UY
日本政治再生を巡る権力闘争の謎
カレル・ヴァン・ウォルフレン
〜中央公論 2010年4月号掲載
ttp://www.chuokoron.jp/2010/10/post_33.html
 民主党が行おうとしていることに、一体どのような意義があるのかは、明治時代に日本の政治機構がどのように
形成されたかを知らずして、理解することはむずかしい。当時、選挙によって選ばれた政治家の力を骨抜きに
するための仕組みが、政治システムの中に意図的に組み込まれたのである。そして民主党は、山県有朋
(一八三八〜一九二二年、政治家・軍人)によって確立された日本の官僚制度(そして軍隊)という、
この国のガバナンスの伝統と決別しようとしているのである。
 山県は、慈悲深い天皇を中心とし、その周辺に築かれた調和あふれる清らかな国を、論争好きな政治家が
かき乱すことに我慢ならなかったようだ。互いに当選を目指し争い合う政治家が政治システムを司るならば、
調和など失われてしまうと恐れた山県は、表向きに政治家に与えられている権力を、行使できなくなるような
仕組みを導入したのだ。
 山県は、ビスマルク、レーニン、そしてセオドア・ルーズベルトと並んで、一〇〇年前の世界の地政学に
多大な影響を与えた強力な政治家のひとりとして記憶されるべき人物であろう。山県が密かにこのような
仕掛けをしたからこそ、日本の政治システムは、その後、一九三〇年代になって、
軍官僚たちが無分別な目的のために、この国をハイジャックしようとするに至る方向へと進化していった
のである。山県の遺産は、その後もキャリア官僚と、国会議員という、実に奇妙な関係性の中に受け継がれていった。
【吉田ドクトリン】日本をこんな国にしたのは吉田茂
83 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2010/10/29(金) 19:18:34 ID:jcUfe2UY
日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。
しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。
それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。
すると議会は、今まで以上の要求をしろという。
無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、
「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことをいうとは、あなたは話のわからない人だ。
ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。
英国はその後マレー半島沖合いで戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、
シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。
日本人は外交を知らない。

ウィンストン・チャーチル「対日世界大戦回顧録」より
【吉田ドクトリン】日本をこんな国にしたのは吉田茂
84 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2010/10/29(金) 19:19:49 ID:jcUfe2UY
チャーチルが愛した日本 (PHP新書) [新書]
関 榮次 (著)  出版社: PHP研究所 (2008/3/15)
ttp://www.amazon.co.jp/dp/4569693652
ttp://books.google.co.jp/books?id=Gveczs87LnsC&pg=PA117&dq=%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%84%9B%E3%81%97%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC

【週末読む、観る】(3)『チャーチルが愛した日本』大きかった母の存在 (1/4ページ)
ttp://sankei.jp.msn.com/culture/books/080427/bks0804270917004-n1.htm
【著者に聞きたい】『チャーチルが愛した日本』(PHP新書・756円)関榮次さん
《大きかった母の存在》
 外交官だったころ、英国の宰相、チャーチルの文書や発言録を読むたび、「どうしてこんなに日本に対して寛容なの
だろう」と感じたという。

『チャーチルが愛した日本』を読んで
ttp://www.gfj.jp/cgi/m-bbs/contribution_history.php?form%5Bno%5D=654
 ウィンストン・チャーチルといえば、1940年から45年まで英国の首相を務め、ルーズヴェルトやスターリンとともに
連合国を勝利に導いた指導者として有名であるが、私はこの人物に対し、最近まで偏見を抱いていた。
それは、ある対談(『吉田健一対談集成』小沢書店、25頁)のなかで、吉田茂元首相が、チャーチルについて
「あの人は日本が嫌いだというから、わたしは会いにもゆかなかった」と語っているのを読んだことがきっかけ
であった(吉田元首相は1936年から39年まで駐英大使)。
【吉田ドクトリン】日本をこんな国にしたのは吉田茂
85 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2010/10/29(金) 19:20:41 ID:jcUfe2UY
あたまにスッと入るあらすじ 
チャーチルが愛した日本 関榮次さんの新作チャーチルが愛した日本 (PHP新書 513)
ttp://atamanisutto.livedoor.biz/archives/51019923.html
1941年になってもチャーチルは日本を参戦から思いとどまらせるために、重光と頻繁に会い、ドイツ・ソ連を
訪問した松岡宛にレターを書いたり、レターを松岡が握りつぶさないようにコピーを近衛に届けたりした。


重光は結局1941年6月に離任し、その直後の7月には日本軍が仏印進駐で米英諸国との対立が決定的となった。
それにもかかわらず、チャーチルは1941年11月、まさに太平洋戦争の勃発まで1ヵ月となった時に、
マンションハウス演説と呼ばれる演説で日本へ最後の警告を出している。

「私は日本の最も賢明な政治家がもっており、すでに明らかにされている願望にそって、
太平洋の平和が保存されることを希望する。」

しかし日本は戦争に突入し、1945年に無条件降伏するに至る。


1951年には首相の座に返り咲き、当時皇太子だった今上天皇を英国でエリザベス2世の戴冠式にお迎えする。
戦後すぐでもあり、英国民の反日感情は高かったが、チャーチルは歓迎を陣頭指揮して、皇太子を格別にもてなした。
皇太子歓迎のレセプションでは、慣例を破って女王への乾杯の前に皇太子殿下への乾杯を行い、
母ジェニー・チャーチルが日本から持ち帰り、チャーチルも愛用している青銅の馬の置物を取り上げて、
「日本はこの置物のような美術品を生む文化と美術の長い歴史をもちながら、西欧諸国にまともに扱われず、
軍艦を2,3隻もつようになってはじめて一流国として認められた」というジェニーが日本で聞いた話を
皇太子殿下へのスピーチとした。
また吉田茂首相の訪英も反対論を押し切って受け入れ、吉田首相のレセプションでも皇太子殿下のスピーチで
語った趣旨を繰り返し、第一次世界大戦中に日本の協力で、ドイツ軍艦を拿捕でき、太平洋での作戦が
うまくいったこと、吉田首相が平和愛好家として戦前戦中を通して努力していたことをたたえた。
吉田首相は、チャーチルに10年来の旧友のように行き届いた心遣いをして貰ったことに感服したと回顧録に記している。
【吉田ドクトリン】日本をこんな国にしたのは吉田茂
86 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2010/10/29(金) 19:21:57 ID:jcUfe2UY
あたまにスッと入るあらすじ 
吉田茂 ポピュリズムに背を向けて 今なぜ吉田茂なのか?
ttp://atamanisutto.livedoor.biz/archives/51211675.html
ソ連が極東委員会を通じて、対日占領政策に口だしする構えをみせたので、マッカーサーは1946年2月に
憲法改正草案の作成を命じ、GHQ関係者25名が7日間で草案を作り上げ、吉田と次郎に手渡す。
改正案を日本側が訳して4月に憲法改正案として公表され、国会決議を経て成立した。
憲法改正案が国家に上程されたときに、多くの議員が無念のあまり嗚咽を漏らしたという。
自国の憲法を批准するのに国会議員が涙を流したというのはおそらく日本だけだろうと北さんは語る。
日本人は彼らが抱いた悔しさを今ではすっかり忘れ果ててしまっていると。


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