- 【吉田ドクトリン】日本をこんな国にしたのは吉田茂
11 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2010/09/28(火) 22:55:47 ID:DWDkIa3m - 長崎事件
1886年8月1日 李鴻章は、「我が清国海軍は以て日本に観して之を懾伏(恐れひれ伏すこと)せしむべし」として 北洋艦隊の定遠、鎮遠、済遠、威遠※の四隻の軍艦を長崎港に日本政府の許可なく入港したさせた上に 水兵が上陸した事件。 許可無く上陸した水兵達は長崎の遊郭で騒ぎを起こし日本の警官がそれを取り締まった。 翌日、わざと交番の前で小便をした水兵に日本人警官が注意したのを切っ掛けに 日本人一般市民を巻込んで大乱闘に発展し双方に死傷者が出た。 日本政府は日清修好条規13条に基づき、騒ぎを起こして中国領事館内に逃げ込んだ水兵 を逮捕して処罰しようとした。 しかし清政府は「清国水兵を殺すための日本の計画的な犯行」として日本人巡査の処罰と 死傷した水兵への賠償を要求。 最終的に李鴻章の「戦争も辞さす」という強硬な圧力に屈し、 日本側関係者の処罰と3万7千円の賠償金を支払った。 何故このような理不尽な要求に従ったかというと、 当時の清国の兵力108万人に対して日本は7万8千人であり、 もし、この事件がきっかけで戦争になったら簡単に東京を制圧され、九州を取られると予測されていた為。 そしてこの事件の後、日本人はプッツン切れた。 あのクリスチャンの内村鑑三でさえ 「文明国として不実のシナに対しては鉄血を以って正義を求めるしかない 永久平和の為に戦え」と言った。 そして日本は富国強兵を行い8年後、清国を打ち破るのであった。
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12 :11[sage]:2010/09/28(火) 22:57:00 ID:DWDkIa3m - 李鴻章は日本を恐れさせようと、当時世界最大艦のドイツ製戦艦、定遠、鎮遠、他2艦を
日本に送り込んだのだが、逆に水兵側の死傷者が多く出たことから激怒し、 長崎事件後、清軍ドイツ人軍事顧問に「今度こそ日本に一撃せん」と語ったが、それが日本人一般市民に 知れ渡った。 日清戦争は朝鮮の独立を求める日本と、属国扱いする清国との間で争いが 生じて起こった戦争と言われているが あくまでもそれは一面であり、この(長崎)事件が切っ掛けとなり、 中国人のキチガイぶりを見せつけられ、 当時の日本人が「戦争はやむを得ず」と考えたのが主因である。 ちなみにこの4隻の艦名の「遠」とは日本を指す。 日本を「威」圧するということで威遠 日本を鎮定するということで鎮遠、定遠 日本は「威圧済み」「鎮定済み」ということで「まる済マーク」の済遠 以上の事実を見て日本が決断すべきは 「そして日本は富国強兵を行い8年後、清国を打ち破るのであった」 現在は日本単独で中国の軍事力増強には対応できない。 アメリカ・インド・ASEAN諸国と連帯し「文明国として不実のシナ」に 対していかなければならない。
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13 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2010/09/28(火) 22:58:44 ID:DWDkIa3m - 大津事件(1891)
http://www.ffortune.net/social/history/nihon-mei/otu-ziken.htm 明治24年(1891年)5月11日、日本を訪問中のロシア皇太子ニコライが、滋賀県 大津市で警備の巡査・津田三蔵に突然斬りかかられました 略 政府は更にロシアに対して謝罪の意を明らかにするため、津田巡査を死刑にす べく裁判所に圧力を掛けます。 しかし、法的に見ると被害者が日本の皇族であれば死刑を宣告することが可能 でしたが、相手は外国の皇族であり、法律上は一般人と同じ扱いになります。 従って怪我を負わせただけなのに死刑を宣告することは法的には無理がありま した。このため裁判を担当した大審院(現在の最高裁判所)院長の児島惟謙は 法治主義遵守の立場から政府の圧力をはねつけ、法定刑内で「無期懲役」の判 決を下します。この事件はこのことにより、児島が司法の独立を守った事件と して語り継がれることになりました。
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