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805 :インドネシアのカス猿男全部殺す[トルコチャンコロ大使館爆破する]:2010/08/16(月) 21:50:02 ID:bP+QZcbw - 韓国人=朝鮮人の先祖は、古代半島の東北部、 いわゆる中国領・楽浪郡の東部地方(日本海沿岸地方)に 住んでいたワイ族。
百済人、高句麗人は古代の満州地方に住んでいた遊牧民族=フヨ族。 ウィキペディア-朝鮮民族 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%B0%91%E6%97%8F 歴史 朝鮮半島では4世紀頃までに高句麗、新羅、百済の三国が興り三国時代と呼ばれるが、7世紀に中国の唐が新羅と結んで高句麗、百済を相次いで滅ぼし、さらに新羅が唐の勢力を追放して朝鮮半島を統一した。 高句麗や百済の支配層は扶余系とみられ、韓系である新羅人とは別系統の言語を話した。 一般的に現在の朝鮮語の祖語は新羅語とされている。このことから言語をもって民族の基準とすると、朝鮮民族を形成していった主流は新羅人であると考えられる。 ウィキペディア-新羅 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85 脚註 ^ なお韓国では、高句麗の滅亡後にその遺民が靺鞨族と共同して満州に建国した渤海を高句麗の後継国家と見なし、新羅・渤海をあわせて南北国時代と呼び、朝鮮民族史の及ぶ地理的範囲を朝鮮半島から満洲・沿海州を含めた領域としている。 しかしながら、言語的観点から現代の韓国・北朝鮮の祖とされる新羅と、高句麗・渤海とでは、民族的・言語的に隔たりがあり(金芳漢著・大林直樹訳『韓国語の系統』)、 高句麗・渤海を現在の韓国・北朝鮮へ連続する国家と見なす十全な根拠がないため、高句麗・渤海の故地を領土に含み、また高句麗・渤海と民族的に同系である満州族を国民として多数抱える中国との間に軋轢が生じている(→東北工程)。
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806 :インドネシア、チャンコロ、トルコの豚にテロする[トルコ猿男殺し尽くす]:2010/08/16(月) 21:51:19 ID:bP+QZcbw - 朝鮮人(高麗族、コリョ族)は中国東北部起源の北の蛮族
「楽浪半島、もしくは東シナ半島」の歴史(中国と日本の歴史) 前1000年頃 殷の廷臣、箕氏(中国人)が周の武王から楽浪(半島北部)に封じられる?(周の属国)その後、周の凋落で王を称す? 戦国期 編纂されはじめていた地理書「山海経」に「楽浪の南に、燕に朝貢する倭がある」旨、記される。 辰国(半島南部、百越人の国)は倭そのものか? 百越人(弥生人)とは、失われた長江文明の担い手。現在そのDNAは半島、日本、ベトナム以南にしか残されていない。 前195年 秦に滅ぼされた燕からの亡命武将、衛満(中国人)が箕氏楽浪を乗っ取る。 このころから辰国は三韓に分かれはじめる。 馬韓(後の百済)は百越人の国。秦韓(辰韓、後の新羅)は始皇帝から逃れてきた秦民の国。弁韓(後の任那)も秦韓に似る。 前108年 中国皇帝の武帝が衛氏を滅ぼし楽浪郡を設置、植民地とする。 前37年 東胡を祖とするコリョ族(高麗族)が中国東北部に高句麗(前高麗)を建国。 2世紀 遼東太守、公孫度が扶余族(穢族からコリョ族と分岐)の王、尉仇台に嫁を与え馬韓(後の百済) の王とする。先から三韓の王族は全て扶余族となっていた? 倭王も同族? 新羅三王家のふたつに倭出自伝説が残されている。 3世紀初 公孫康 、曹操の許可を得て楽浪郡南部を帯方郡(後の百済)として設置。 4世紀 晋の八王の乱の混乱に乗じて、高句麗が楽浪郡を不当占拠。百済、新羅が建国。日本を大国と崇め、人質を送る。任那も併せ三韓は日本の勢力下にあった。 7世紀 任那、百済と順に滅亡、遣隋使と合わせて日本は半島から手を引く。新羅、高句麗を征伐。統一新羅は中国の属国となり、独自の名前と年号を捨て、中国式の名前と年号を使い出す。 918年 新羅滅亡、高麗(後高麗)建国。新羅内に雌伏していたコリョ族が国を乗っ取った。 ここまでは、朝鮮人の歴史ではない。
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807 :トルコのゴミ豚男全部殺す[インドネシアの黒猿男全部殺す]:2010/08/16(月) 21:52:09 ID:bP+QZcbw - 朝鮮人とは朝鮮半島の南側に住んでた原住民で、三韓(馬韓、弁韓、辰韓)人
それに対して高句麗(※)も百済も朝鮮人を支配してた扶余(ツングース)民族だな 広辞苑より 【扶余】前一世紀から五世紀まで、中国東北地方北部に活動した民族。 また、その建てた国。ツングース族の一。一〜三世紀中頃が全盛期、もと百済の別称。 【高句麗】紀元前後、ツングース族の扶余の朱蒙(東明王)の建国という。 中国東北地方の南東部から朝鮮北部にわたり、四世紀広開土王の時に全盛。 都は二○九年より丸都城、四二七年以来平壌。唐の高宗に滅ぼされた。高麗(コマ)。 【渤海】八〜一○世紀、中国東北地方の東部および朝鮮半島北部のあたりに起った国。 靺鞨(マツカツ)族の首長大祚栄が建国。唐の文化を模倣し高句麗(コウクリ)の旧領地を 併せて栄え、七二七年以来しばしばわが国と通交。一五代で契丹に滅ぼされた。 【靺鞨】(マツカツ)ツングース族の一。有力な部族が七部あり、その一である 粟末(ゾクマツ)靺鞨の首長大祚栄は渤海国を起し、また黒水靺鞨は後に女真と称した。 【女真】中国東北地方の東北部から沿海州方面に住したツングース系の民族。 五代の頃より女真と称し1115年完顔(ワンヤン)部の首長阿骨打(アクダ)が金を 建国し宋に対抗。後に清朝を興した満州族も同一民族である。 一方朝鮮人は、朝鮮半島の原住民の事です。 馬韓、弁韓、辰韓の民族ですね。 なので 百済≒高句麗≒渤海 ≠ 三韓=朝鮮民族
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808 :殺しまくる[テロしまくる]:2010/08/16(月) 21:53:42 ID:bP+QZcbw - ウィキペディアの百済のページ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88 百済の中期には、高句麗の軍事的圧力に対抗するために和通したと記録されている、『日本書紀』の中には、領土を奪われた百済に任那の一部を割譲した記録や援軍を供出した記録、さらには倭朝廷に朝貢したり、王族を人質として差し出した記録などが数多く残っている。 また中国の『隋書』にも、新羅・百濟は、みな倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す。(新羅百濟皆以倭為大國多珍物並敬仰之恒通使往來)という記述があり朝貢関係があったことをうかがわせる。 さらに、広開土王碑でも倭について、百済■■新羅を破り以って臣民と為す(「倭ロ<耒卯年来渡海破百殘■■新羅以爲臣民」)という部分があり百済が辛卯年(391年)に倭によって支配を受けていたことも明らかとなっており主従関係が存在しており、 倭の重臣と百済との間で家臣上下に関わる席順の取り合いのエピソードも残されている。 これらのような記述が史実であるのかに関しては異論も多いが、友好的であったのは確かであろう。 また王族については、百済の王族は倭によってその婚姻が決められており中国ーツングース系と倭人との混血が繰り返された。基本的に百済王の后が倭人の中から選ばれ、その王子が王位に付くまでの間、倭が王子を人質として扱った。
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809 :トルコ猿男全部殺す[インドネシアの黒猿男全部殺す]:2010/08/16(月) 21:54:38 ID:bP+QZcbw - 高句麗の碑文だと
百済・新羅は倭に負けた、高句麗は勝った。つまり。 高句麗>倭>>>>>>>>>>>>>>....百済=新羅 4世紀末だとこうだな。 倭は渡海というハンデを背負ってこれだから、倭の潜在バトルポイントはさらに跳ね上がるっ!
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