- 【国連】竹島不法占領非難決議可決 3【安保理】
692 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2010/07/16(金) 22:31:24 ID:ulMkEmG6 - 阿久根市: 海にまつわる昔話(明治版密貿易)
ttp://www.city.akune.kagoshima.jp/rekisi/m_meiji.html 韓国等の前身朝鮮は、明治四十三年日本に併合されたが、この出稼ぎ漁業は、その十年も前の頃で、 日露戦争の当時が最も盛んであったという。 阿久根浜の古老たちが語った、当時の密取引、即ち「明治版密貿易」はユーモアに富み、大陸育ちの朝鮮人たち は、その商才では漁民たちより、一歩も二歩も上手であったと笑っていた。 先きにも述べたが、漁民たちが対州(対馬のこと)近海で操業に夢中になっていると、潮の流れにのって、 いつの間にか朝鮮南岸に近づいていた。 すると、朝鮮の漁民たちが、近くで漁獲しているのに出会った。 当時、朝鮮の漁業は非常に貧弱で、日本の小舟より一層小さい小舟で操業しており、日本舟の操業には、 驚いて目を見張っていた。 漁獲も沿岸の小魚で少なく、日本舟に出会うと彼らの方から必ず手を挙げて招いた。朝鮮は日本に併合される 前で立派な外国であったが、言葉は通じなくても、手真似、身振りで意思は充分通じ合っていた。 日本の舟が彼等朝鮮舟に近づくと、先きに立って必ず小さな港に案内された。 すると、申し合せたように村人たちが集まり、日本舟の魚は、この港で引っぱりだこで、きれいに売り切れるの であった。 こうした味をしめた日本舟は、その後故意に、朝鮮南岸に漂流したようにして寄港するようになった。 二・三回、こうした高い値段での密取引きを繰り返すうち、彼等の港では日本舟の入港を待つようになり、 どんなに大量の漁獲があっても、遠く対州の根拠地まで持ち帰る必要はなく、これらの港で高価で買い取られた。
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- 【国連】竹島不法占領非難決議可決 3【安保理】
693 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2010/07/16(金) 22:32:21 ID:ulMkEmG6 - 南極海における捕鯨と日本における捕鯨史
ttp://hello.ap.teacup.com/koinu/652.html 奈良時代に編纂された万葉集においては、鯨は「いさな」または「いさ」と呼称されており、捕鯨を意味する 「いさなとり」は海や海辺にかかる枕詞として用いられている。11世紀の文献に、後の醍醐組(房総半島の捕鯨組) の祖先が851年頃に「王魚」を捕らえていたとする記録もあり、捕鯨のことであろうと推測されている。 江戸時代における捕鯨の多くはそれぞれの藩による直営事業として行われていた。鯨組から漁師たちには、 「扶持」あるいは「知行」と称して報酬が与えられるなど武士階級の給金制度に類似した特殊な産業構造が形成 されていた。捕獲後の解体作業には周辺漁民多数が参加して利益を得ており、周辺漁民にとっては冬期の重要 な生活手段であった。捕鯨規模の一例として、西海捕鯨における最大の捕鯨基地であった平戸藩月島の益富組 においては、全盛期に200隻余りの船と3000人ほどの加子を用い、享保から幕末にかけての130年間における 漁獲量は2万1700頭にも及んでいる。また文政期に高野長英がシーボルトへと提出した書類によると、西海全体 では年間300頭あまりを捕獲し、一頭あたりの利益は4千両にもなるとしている。江戸時代の捕鯨対象は セミクジラ類やマッコウクジラ類を中心としており、19世紀前半から中期にかけて最盛期を迎えたが、 従来の漁場を回遊する鯨の頭数が減少したため、次第に下火になっていった。また、鯨組は膨大な人員を 要したため、組織の維持・更新に困難が伴ったことも衰退に影響していると言われる。
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- 【国連】竹島不法占領非難決議可決 3【安保理】
694 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2010/07/16(金) 22:33:26 ID:ulMkEmG6 - 【竹島問題】独島問題、本質と解決方案は〜「韓日の国家間の問題ではなく客観的・歴史的事実の問題だ」[07/04]
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1278511455/
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