- ユダヤの最上層部は宇宙生命体かその憑依【4】
763 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2010/04/16(金) 17:24:59 ID:QW+6vC2c - その日、私はとても思索的な気分だった。やがて、周囲の物事が鮮明に意識される
ようになった。鳥のさえずり、葉の音、肌に触れるそよ風、芝や花の香り。 私はふいに衝動にかられ、芝にうつ伏せになった。すると、大地の一部になったかの ようにエネルギーが私を通りぬけていった。肉体と周囲の境界が消え、別々のもので あるという感覚がなくなった。なぜか私は大地と完全に混じり合い一体となったのだ。 私は大地であり、大地は私だった。指の間から芝がのび、顔に触れている。私は私の 全細胞をつらぬくようなその力に圧倒された。 私はふいに、いまこそ自分は生きているという感覚に満たされた。長い深い眠りから 真の世界に目覚めたかのようだ。ベールが目から取り除かれ、あらゆるものがはっきり と見えた。信じられないほどに美しいエネルギーが私をとりまき、生きているものも 生きていないものも、すべてが言葉では表現できない意識のようなもので複雑につなぎ あわされている。…その体験は数分で終わったが、無限に続くかのように感じられた。 理解の瞬間が永遠に静止しているかのようだった…。
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- ユダヤの最上層部は宇宙生命体かその憑依【4】
764 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2010/04/16(金) 17:57:15 ID:QW+6vC2c - シュタイナーは「死者はともにあり」と題する講演で次のように説明している。
『霊的に言えば「過去」は消滅せず、恒久的に存在している。物質世界において、 この概念は空間のみに用いられる。木の前に立ってから、離れていき、背後を 振り返っても木は消えていない。霊界では、同じことが“時間”について言える。 ある瞬間の体験は、物質意識に関する限り次の瞬間には過ぎ去ってしまうが、 霊的には過ぎ去っていないのだ。振り返ると木がそこにあるように、その体験を 振り返ることもできる。リヒャルト・ワグナーの「ここに、時間は空間となった」 という驚異的な言葉は、彼がこの知識を有していたことを示している』 彼は言う。 『力説するが…この霊界は、人間の思考と同じ物質によって構成されている。 しかし、人間の中の思考は真の思考の幻、影絵のようなものにすぎない。壁に映った 物体の影がその影をつくった実体を反映しているように、霊界には、人間の中に 生まれた思考の本体ともいうべき、真の思考が存在している』
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- ユダヤの最上層部は宇宙生命体かその憑依【4】
765 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2010/04/16(金) 18:28:05 ID:QW+6vC2c - シュタイナーはさらに語っている。
『我々は眠りにおちる瞬間、そして目覚める瞬間に、死者と出会う。覚醒と入眠の 瞬間は、いわゆる死者との、そして高次世界の霊的存在との交信にもっとも大きな 意味をもつ時間である。眠りにおちる瞬間は、とりわけ死者に話しかけるのに都合 がいい。死者に何かを訪ねたいならば、質問を魂に刻みつけ、眠りに入る瞬間、 死者に問いを発するのだ。いっぽう、覚醒の瞬間は死者からの交信を受けるのに 最適な時間である。なぜならば、目覚めのときには誰もが“死者からの無数のたより” をともなってくるからである』 ここで奇妙な問題が生じる。死者と話をするときは、両者の関係がなぜか逆転する。 生者が死者に質問をすると、その問いは死者から発せられてくる。つまり、死者が 我々の問うた質問を、我々の魂に吹きこむのだ。そして死者が答えるとき、答えは 我々の魂から出てくる。死者との交信を確立するとき、我々は自分の言葉を死者の 中に聞き、死者の答えを自身の魂から受けとらなくてはならない。… …主観的精神は“客観的精神”の日常的支配から解放される眠りの瞬間にもっとも 効果的にその力を発揮できるという。眠りの瞬間には右脳半球が左脳半球の日常的 支配から解放されるからである。 コリン・ウィルソンの「来世体験」三笠書房
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- ユダヤの最上層部は宇宙生命体かその憑依【4】
766 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2010/04/16(金) 18:47:46 ID:QW+6vC2c - 『主観性こそは真理である』キルケゴール
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- ユダヤの最上層部は宇宙生命体かその憑依【4】
770 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2010/04/16(金) 19:49:16 ID:QW+6vC2c - >>768
キルケゴールは実存主義の先駆けの人らしいから…自分一人、一人称に対しての事 だと多分、思うけど…ワタスは実存を内心に向かってつきつめていったら内と外が 繋がったというイメージで書き込みますた。 >他の人の思考とか意識とか感覚とかに混ざったら >>763の最後の一行のようになるようにワタスは思います。ようわからんけど。 全能が故の無能といいましょうか…。梵我一如とかTHE ONEとかパンタレイとか ヘルメス主義の“上なるものは下なるものの如く”とか「私は在るというもので在る」 とかと同じような事を言ってるような気がする…
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