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名無しさん@お腹いっぱい。
     イタリア     
アルメニア

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     イタリア     
625 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2010/03/31(水) 20:12:05 ID:IpTrdqIg
ベルルスコーニが地方選で大勝利!

左翼なんざ糞食らえ。
アルメニア
66 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2010/03/31(水) 22:13:29 ID:IpTrdqIg
トルコから一歩歩み寄り―歴史的アルメニア教会での儀式解禁 2010年03月25日付 Hurriyet紙
http://www.hurriyet.com.tr/planet/14217523.asp?gid=286

 文化省が本日発表した決定によって、アクダマル島の教会を儀式のために年に一度開放することを、
海外の通信社が伝えた。昨夜ダヴトオール外相が、召還されていた在スウェーデン・トルコ大使の復帰を
明らかにしたことで、トルコがこの二日間で次々とアルメニア人に和解を申し出ているのだと解釈されている。

AFP通信:トルコは具体的な形でアルメニア人に宗教儀式の許可を出した。
トルコのマイノリティーであるアルメニア人との和解の具体的な形として、歴史的な教会で年に一度宗教
儀式を行うことに許可が下りた。キリスト教世界の最も重要な人物の一人にちなんで名付けられた教会の
屋根の上には十字架が無い。なぜなら当局が今日までアルメニア人のこの問題に関する訴えを退けてきた
からであった。トルコとアルメニアの間で1世紀にわたり和解に向けての話し合いが続いてきたが、ようやく
二国は、十月に外交関係を再構築し、国境を開くために歴史的な議定書にサインした。しかしそのプロセス
は早くも障害に直面した。双方とも、合意するに十分な誠意を示していないとお互いを非難している。

ロイター通信:トルコはアルメニアとの問題に一歩を踏み出している
トルコのゼルギュン・コルテュルクスウェーデン大使が、協議のためにトルコに召還されてから2週間が
経過した。大使は数日のうちに任務にもどると発表された。ダヴトオール外相が発表したこの決定は、
トルコとアルメニアの関係正常化に影を落としていたデリケートな問題に決着をつけるためである。

トルコのEU加盟プロセスにおいて最も重要な促進者の一人であるスウェーデン大使は、アメリカ大使の
一週間後に呼び戻されていた。アルドアン首相は、スウェーデンによる「アルメニア人虐殺」の承認決議を
うけて今月開催される首脳会議をキャンセルした。ダヴトオール外相は、スウェーデンとアメリカの状況は
同じでなく、スウェーデン政府はこの決定に対し反対を明確に表明していたと語った。
アルメニア
67 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2010/03/31(水) 22:23:35 ID:IpTrdqIg
アルメニア人協会代表、エルドアン首相と面会「先をみることが大事」 2010年03月26日付 Radikal紙
http://www.radikal.com.tr/Radikal.aspx?aType=RadikalDetay&ArticleID=987929&Date=27.03.2010&CategoryID=77

 エルドアン首相は、アルメニア人協会代表ベドロス・シリンオール氏とアルメニア病院副理事長
のヘルマン・バルヨン氏を接見した。首相官邸での接見後に会見を行ったシリンオール氏は、
1915年の出来事について、「非常に親密な2人の友人関係が損なわれた。彼らの間に不信が
生まれた」と述べた。氏は、「忘れて、先を見ることが必要だ」と話した。

セルジ・サルキシャン・アルメニア大統領も同じ見解であると語ったシリンオール氏は、記者が
「1915年以前のアナトリアでアルメニア人人口は150万、現在は7万人だが、これの意味する
ところは何か」と質問すると、「その答えは諍いだ。150万のアルメニア人がいた。そうだ、確かに
アルメニア人もトルコ人も失われたのだ。この150万人のアルメニア人のうち、大部分は国外へ
移住した。今日、ベイルート、シリア、イラン、イラク、アメリカ、フランスにいるアルメニア人の数を
数えてごらんなさい、その差が見られるでしょう」と答えた。

■「祖父は事件の際に死んだ」
「私は何もなかったと言っているのではない。アルメニアの同胞は困難を味わっただろう」と述べ、
「しかし、あまり掘り返すことは有益ではない。こうしていては我々の未来は常に暗いままだ、
光を見ることはできないだろう。(しかし)確かに何かが起こった」と表現した。アルメニア人協会
代表は、1915年の事件の際アルメニア人に起こったのと同様に、トルコ人にも困難が起きたと述べ、
自身の祖父も事件の際に死亡したことをつけ加えた。シリンオール氏は、この事件を「民族虐殺」
と呼ぶ必要はないと述べた。

シリンオール氏は、「あれから100年が過ぎた。憎しみ続ける必要はない。世界でこのような事件は
たくさん起きた、戦争も何度も起きたし、困難も多く起こった、しかしそれらには蓋がされてきた」と述べ、
「どうした訳か、トルコではオスマン朝に生きたアルメニア人の時代から、この事件に蓋がなされる
ことが望まれない。なぜ望まれないのか、私には分からない」と話した。
アルメニア
68 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2010/03/31(水) 22:25:38 ID:IpTrdqIg
■アルメニア・ディアスポラへの呼びかけ
「アルメニア人はトルコで安全に暮らしているか?」という質問にシリンオール氏は、
「そうだ、アルメニア人は自らをトルコで安全の中にいると感じている。あなた方はアルメニア人に
ついて不満を感じたというのか?トルコで暮らすアルメニア人に何か不満を感じましたか?どうか?
そんなことはない」と話した。

シリンオール氏は、「アルメニア人に不満がないのなら、なぜこうした案が出てくるのか。あなたの
これらの言葉はディアスポラから反発を受けますか?」という質問に、「ディアスポラにいる人々は
来るといい、長い間、国から遠く離れている人々は来るといい、トルコのアルメニア人ワクフの資産、
学校、そしてアルメニア国民の暮らしを見て、それから決めるといい」と答えた。

エルドアン首相の「10万人の違法滞在アルメニア人を国外追放する」という発言についても、
シリンオール氏は10万という数字はエルドアン首相に自分たちが伝えたものであり、それが
誤っていたと述べて謝罪した。

トルコに10万人のアルメニア国民はいない。2万人のアルメニア国民がいる。首相閣下は我々の
言葉を信頼し、信じて10万人という言葉を使われたのだろう。調査したなら、人数はすぐに分かった
のだ。これは我々への信頼だ。我々を信じて下さって首相閣下に本当に感謝している。同時に、
彼を誤らせてしまったために謝罪する。我々のワクフが保有する8か所の不動産はワクフ総局が
我々に返還したものだ。これにも感謝している。今回は首相との7回目の面会だった」と述べた。

■発言と本心はひとつではない
ベドロス・シリンオール氏は、違法滞在するアルメニア人に関する質問に対し、「首相閣下の口
から出た発言は、彼の本心とひとつのものではない。『首相閣下はすべきことをなさるだろう』と
私は言った、首相閣下はすべきことをなされたのだと推察する」と答えた。
アルメニア
69 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2010/03/31(水) 22:28:27 ID:IpTrdqIg
トルコに違法滞在するアルメニア人子弟の就学に関する質問に対しては、シリンオール氏は
「首相閣下は、ニメト・チュブクチュ女史に必要な指示を与えられた。この問題について対策が
行われている。待とう。女史は必要な処置をとられるだろう。しかし、これにも順序がある。
トルコの違法滞在者はアルメニア人だけではない。世界の四方八方から来て違法に滞在している
人間がいる。彼らにそれぞれ学校を建てようとするなら、どうやってこれを成し遂げようというのか?
しかし、最低10人から15人の子弟がいれば、解決の道を探されるだろうと私は考えている」と話した。

■我々はマイノリティだ、しかしトルコ共和国の国民だ
シリンオール氏は、「首相閣下はマイノリティに対して行われることについて、何か示唆されたか」
という質問に、「我々はマイノリティだ、しかしトルコ共和国の国民だ。すべてのトルコ共和国国民
のように、我々にも欠陥を補うために首相閣下に請願する権利がある。必要なことが行われている」
と答えた。トルコとアルメニアの間の外交議定について希望的観測を持っているかどうかという
質問に答える時も、シリンオール氏は、「私は希望を持っている、なぜなら、アルメニアもトルコも
過去から教訓を得るだろうと考えるからだ。同じ過ちは繰り返されない。この問題は速やかに
終息する。」と述べた。

シリンオール氏は、すべての面会の申し出に応じてくれた首相にも感謝した。
会見中、氏が身に付けたオスマン朝スルタン・マフムート2世の描かれたカフスボタンが注意を引いた。

1808年から1839年にかけて在位したマフムート2世は、「私は臣民のうちムスリムはモスクで、
キリスト教徒は教会で、ユダヤ教徒はシナゴーグで彼らを見たい」と、オスマン朝臣民は自身が
求め、帰依した宗教の定めに自由に従うことができると明言した。信仰の自由を持ち続けた
アルメニア人社会は、自身の言語、文化、宗教的生活、社会関係を、長い間開校された共同体
学校で学び、教えていた。

タンズィマート時代(1839年‐)が始まると、全ての非ムスリムに広範な権利と自由がもたらされた。
忠誠なる民という立場にあったアルメニア人は、アルメニア人民法典と、オスマン国家のもっとも
信頼のおける構成員という特徴を守り続けていた。


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