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名無しさん@お腹いっぱい。
アルメニア
トルコとトルクメニスタンに交遊関係を築こう

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アルメニア
62 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2010/03/23(火) 19:33:12 ID:oisRouaQ
トルコの歴史家、アルメニア虐殺に反証 2010年03月14日付 Yeni Safak紙
http://yenisafak.com.tr/Gundem/?t=14.03.2010&c=1&i=246720

 歴史家のジェズミ・ユルトゥセヴェル氏は、アルメニア公文書館から入手した一枚の写真が、
1915年にアダナからアレッポへ移住してきたアルメニア人たちが音楽隊を伴う歓迎を受けたことを
示していると発言した。同氏は、この写真をアルメニア人虐殺の主張に「イエス」と言う人々が
見たならばきっと恥じ入るだろうと述べた。

 ユルトゥセヴェル氏は以下のように発言した。「アダナを離れアレッポに移住してきた人々は、
まず音楽隊によって歓迎されます。その後すでに用意されていたテントに移る人々もいれば、
オスマン軍の兵舎関係の建物に落ち着く人々もいました」

 1915年の事件に関連するいわゆる「アルメニア人虐殺」の主張は、アメリカ下院外交委員会に
続いてスウェーデン議会も承認した。歴史家のジェズミ・ユルトゥセヴェル氏は、1906年にカイロで
設立され、創立者兼会長をアルメニア人の血を引くエジプト人であり、外交官で銀行家であった
ボゴス・ヌバル・パシャが務めた、「AGBU」という略称の支援組織の文書館に保管されていた
多くの写真が一部の研究者たちに公開されたと述べた。

 ニューヨークに本部があり、ディアスポラのアルメニア人たちの間で支援活動を統括する
AGBUが、2008年に研究者たちに情報提供した多くの歴史的な写真では、1915年にアナトリア
からシリアへやってきたアルメニア人たちが移住したキャンプや、(彼らが受けた)社会経済的な
(支援)活動が(研究者たちの)視界の前に広がったと同氏は述べた。
アルメニア
63 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2010/03/23(火) 19:33:54 ID:oisRouaQ
 また、同氏は以下のように述べた。「1915年にアダナからアレッポへ移住したアルメニア人
たちが、楽隊を伴う歓迎を受けたことを示す写真は歴史的な事実を反映しています。アダナを
離れアレッポにやってきた人々はまず楽隊によって歓待されます。その後すでに用意されていた
テントに移る人々もいればオスマン軍の兵舎関係の建物に落ち着く人々もいました。アルメニア
のAGBUに付属する歴史文書館から出た多くの写真さえも、全体として1915年にオスマン政府が
アナトリアのアルメニア人たちに行った強制移住や、追放政策という名で知られる政策が虐殺
ではなかったことを示しています。」

■ 在シリアアメリカ領事も追放が虐殺ではなかったことを明らかにしている

 アレッポとユーフラテス川沿岸にあるアルメニア人移住者用のキャンプを訪れたアレッポ
駐在のジャクソン米領事が、1916年2月8日にモーゲンソー在イスタンブル大使に宛てて送り、
公式文書としてアメリカの国立公文館の中に納められている報告書によると、アレッポや
ダマスカス、そしてユーフラテス川沿岸に至ったアルメニア人移住者の数は486,000人に
達したことを明らかにしている。

 ユルトゥセヴェル氏は、この報告書が50万人の移住アルメニア人たちがシリアへ移ったことや、
テントや新設の建物に移住したことを示していると強調し、以下のように述べた。「まずアルメニア人
ディアスポラの最も強大な支援組織であり、その活動をアメリカのニューヨークで続けているAGBU
が所蔵する、1915年に関するアナトリアからシリアに移住し、キャンプに移り住んだアルメニア人
たちに関係する写真のコピーは、www.cezmiyurtsever.comにて公開し学術界に提供しています。」
トルコとトルクメニスタンに交遊関係を築こう
131 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2010/03/23(火) 19:45:02 ID:oisRouaQ
ロマの人々へ、住宅提供―エルドアン首相、約束 2010年03月15日付 Milliyet紙
http://www.milliyet.com.tr/romanlara-toki-acilimi/guncel/haberdetay/16.03.2010/1211405/default.htm?ver=20

 アブディ・イペキチスポーツサロンは、昨日がおそらく今までで最も色付き、活発な1日だった。
12月に行われたシンポジウムの後、ロマ・プロジェクトの第二段階である『ロマ会合』のため、
トルコ全土から大太鼓とともに来たロマの人々は、エルドアン首相と共に、音楽、ダンス、
興奮が高まる会合を行った。

 ロマ・プロジェクトが何故必要とされたかは、自身もロマである差別ゼロ協会のエルマス・アルス
会長の以下の話の中でもはっきりとは答えていない:「外に出た時に私たちと遊ぶのを避ける子供
達を見るにつけ、家に帰り母親に理由を聞きました。私たちはこの偏見で開かれた私たちの目を、
この疎外のまま閉じてしまうことを望みません。サルギョル・モスクで祈りをするシャディ・アムジャ
を不愉快に感じる人に反対します。セレンディで子供達たちがリンチされるのを怖がり木箱に隠れる
ことがないよう、私たちはこの場にいます。私たちの子供に誰も『大きくなったら何になるんだい?』
とは聞きません。なぜなら運命は明らかだからです。」

 エルドアン首相は、好意的な様子で上がった演壇で以下の演説で大きな喝采を得た:
「私は、イスタンブルのカスムパシャ地区のクラクスズで、あなた方の間で生まれました。そこで
私たちは共に大きくなりました。誰かがあなた方を『ジプシーの子供(ショパル)』、『ベレクチ(ふるい売り)』、
『托鉢僧(アブダル)』、『マルティプ』、『バラ』、『パシャ』、『グルベット』、『アーシュク』、『ジャノ』、
『ザナアトキャール』、『チガン』、『ジプシ』、『ジンガン』、と言うことを。何とでも言わせておきましょう。
どんな表現を使おうとそうさせておきましょう。あなた方は『ロマ』です、つまり人間です、生きています。
あなた方は私の兄弟です。心から述べます、心からの言葉を述べます;赤を好み、ピンクを好み、
お互いを褒め称える、ロマはこのような人々です。楽器なしでは生きてはいけません。どうあっても
ロマであってください。石、泥、これもアッラーの創造物です。誰もがあるようにあればいいのです。」
トルコとトルクメニスタンに交遊関係を築こう
132 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2010/03/23(火) 19:45:57 ID:oisRouaQ
 「どの子ども、赤ちゃん、ジプシーの子どもも、両親から受け継いだ民族的出自や言語の故に
疎外され得るでしょうか?このことは人間として良心の問題としておさまりのつくものではあり
ません」と述べたエルドアン首相は、「濃い色であればあるほど、果物は熟しています」という
ロマのことわざに耳を傾けていることも強調した。

 第二次世界大戦時にヨーロッパで100万人のロマの人々が虐殺の対象になったこと、
またヨーロッパの都市から続々と逃げたロマの人々をトルコが受け入れたことを明らかにした
エルドアン首相は、「虐殺、差別、疎外を働いた人々がまさに自身の罪を私たちに転嫁しようと
しているのです」と述べた。

 ガリポリの戦いの間、トルコ兵が自らの命を危険にさらす一方で、敵にコーヒーを出す
寛い心を持っていたとし、「この国民・国へ向けたこの汚い訴えの全てを、私たちの歴史、
寛容な心、友愛、一体感と全体感でもって無にしてしまいましょう」と話した。

 「宿に向かう道は、あなたを宿から引き離さない」というロマのことわざを引用したエルドアン
首相は、「道は宿の一部です。私たちはもう宿に向かう道を歩んでいます。トルコの異なる
民族グループ、異なる信仰グループの問題を解決する道に進みでました」と述べた。

 エルドアン首相は、ロマの人々がもうテントや寄せ集めで作った建物で暮らすことを
望まないと述べ、TOKIがロマの市民のために準備した住宅プロジェクトを紹介した。
エルドアン首相は住宅の近くに学校、社会施設、買い物の店も建設し、前払い金なしで
月に100-120リラの分割払いで20年の返済期間を与えること、また 12-16ヶ月のうちに
引渡しを行うことを述べた。またエルドアン首相はブルサ、エディルネ、サカルヤ、アフヨン、
バルケシル、ブルサ、エスキシェヒル、キュタフヤ、テキルダーで3408の住宅建設が開始
されたことを説明し、演説の後4人の市民に身分証明書と婚姻証明書を与えた。


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