- 【慰安婦】愚民はホロコーストを妄信せよ【アルメニア】
41 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2007/08/24(金) 02:11:40 ID:1388wszZ - ホロコーストに憑かれた人々
――その出自、政治的傾向(Wikipediaその他から)―― http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/exterminationists.htm <ラングバイン、ヘルマン(Hermann Langbein)、1912-1995> http://de.wikipedia.org/wiki/Hermann_Langbein 1912年にウィーンで生まれ、1938年にはスペインに渡り、スペイン内戦では人民戦線側にたって戦った。その後、フラ ンスで逮捕され、ダッハウ、アウシュヴィッツなどの収容所に収容された。戦後、クラクフに本部をもつアウシュヴィッツ 委員会議長をつとめ、また、国際強制収容所委員会事務局長もつとめた。1960年代初頭に西ドイツで開かれたアウシュ ヴィッツ裁判の実質上の組織者の一人であった。
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- 【慰安婦】愚民はホロコーストを妄信せよ【アルメニア】
42 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2007/08/24(金) 02:12:10 ID:1388wszZ - ホロコースト講義 4.2.4 意図的な誇張と嘘
http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/lectures/424.htm 大ベルリン管区のドイツ共産党青年組織の最後の指導者であったブルーノ・バウムは、将来の共産主義的東ドイツの 最後の大統領エーリヒ・ホーネッカーとともに、1935 年に逮捕されました。彼は、非合法活動と「国家に敵対する宣伝文 書」の配布の咎で、1937年に反逆罪13年の刑を宣告されました。そして、1943年4 月、アウシュヴィッツに移送されてい ます。熟練電気工であったので、アウシュヴィッツの電気工囚人労務班に配属されました。そして、すぐに地下細胞を組 織し始め、収容所に共産主義的レジスタンス宣伝を広め始めました。電気工という職務であったので、収容所の中を自 由に動き回ることができたためでした。 1944年中頃、バウムは、ヘルマン・ラングバイン(オーストリア共産党員、のちに アウシュヴィッツ委員会議長)とヨーゼフ・チラキエヴィチ(ポーランド社会党員)も所属したアウシュヴィッツ収容所パルチ ザン会議指導部にまで、上りつめました。バウムと彼の仲間は、国際社会主義・共産主義収容所パルチザン指導部の ために、ドイツの軍需産業についての情報を収集し、その情報は、ポーランド地下組織を介してロンドンに無線で送られ ました。SSによる非人道的な虐待、「すべての諸民族の450万人の殺人の犠牲者を含む、アウシュヴィッツ収容所での ナチスの膨大な犯罪」についての虐殺宣伝報告は短波放送を介してラジオ・ロンドンに送られていますが、それは週2回 の頻度で、収容所地下運動編集グループが作成・発送したものでした。
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- 【慰安婦】愚民はホロコーストを妄信せよ【アルメニア】
43 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2007/08/24(金) 02:18:17 ID:1388wszZ - ホロコースト講義 4.2.4 意図的な誇張と嘘
http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/lectures/424.htm このブルーノ・バウムや彼の同僚たちが、戦争直後にソ連びいきの記事を書いたのです。1945 年6月に発表された記事が、 共産党指導部「政策決定委員会」が調整・承認した「アウシュヴィッツ強制収容所共産党活動報告」でした。このような情報操 作が、「戦争犯罪調査ソ連臨時委員会」報告とともに、400万人の犠牲者という宣伝目的の数字を含むアウシュヴィッツに関 するソ連側宣伝のコアを1990年まで形作りました。 終戦3ヵ月後の1945年7月31日、このブルーの・バウムは自分たちの活動を自慢する、「われわれは地獄から無線をうって いた」と題する記事を書いています。それは、この当時のドイツ共産党中央機関紙『ドイツ民族新聞』に掲載されました[8]。 その記事にはこうあります。 「外国諸国で広まり始めているアウシュヴィッツについての情報宣伝の起源は、ポーランド人同志に助けられたわれわれ の活動にある。」 アウシュヴィッツの政治部、すなわち収容所ゲシュタポは、この当時、収容所パルチザンの正体を暴くことはできませんでした が、できるかぎりネガティブキャンペーンの広がりを阻止しようとしましたので、収容所のSS指導部はアウシュヴィッツの労働・ 生活状況を改善しました。このために、バウム自身が「アウシュヴィッツは最後にはモデル収容所となった」と書いているほどです。 共産主義者によるこのような宣伝活動が実際に効果を上げたことは、バウムの記事の中の修正箇所によっても明らかです。 1949年に出版されたバウムの本『アウシュヴィッツでのレジスタンス』には、はっきりとこう書かれています[9]。 「この当時世界に広まっていたアウシュヴィッツに関する宣伝情報の大半は、収容所のわれわれによって書かれたといっても 大げさではないと思う。」
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