- 原爆資料館のアメリカ人理事長が原爆投下を正当化
10 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2007/05/31(木) 15:51:30 ID:GTSEcGzf - ●ロバート・オッペンハイマーといえば、「原爆投下は日本に警告なしに行なわれるべきだ」と
反日的な強硬論を主張した人物である。彼は、最初から最後まで投下目標について日本だけ を論じており、ドイツを投下目標として論じたことはなかった。 http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhc700.html 『昭和史の論点』(文春新書) P202 原爆はなぜ日本に投下されたか 半藤 ・・・アメリカが原爆を日本に投下しようと決めたのはいつなのか、・・・中略・・・、 はじめから日本しか考えていなかったという説もある。・・・中略・・・原爆開発計画である 「マンハッタン計画」の総指揮官だったグローブス少将の昭和20年4月24日付の手紙には、 目標は一貫して日本だったと書いてあります。・・・ ■[歴史] 原爆投下の正当性を検証する http://d.hatena.ne.jp/drmccoy/20050811/p2
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12 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2007/05/31(木) 16:03:44 ID:GTSEcGzf - 芝田進午・広島大学名誉教授の毎日新聞(1994年9月6日)への寄稿文の一部
「広島・長崎への原爆攻撃の目的は何だったのか。一つには戦後世界でのアメリカの覇権 確立であり、二つには『原爆の効果』を知るための無数の人間への『人体実験』だった。 だからこそ、占領後に米軍が行ったことは、第一に、原爆の惨状についての報道を禁止し、 『人体実験』についての情報を独占することだった。 第二に、史上前例のない火傷、放射能障害の治療方法を必死に工夫していた広島・長崎の 医者たちに治療方法の発表と交流を禁止するとともに、死没被爆者のケロイドの皮膚や臓器 や生存被爆者の血液やカルテを没収することだった。 第三に、日本政府をして国際赤十字からの医薬品の支援申し出を拒否させることだった。 たしかに、『実験動物』を治療するのでは『実験』にならない。そこで米軍は全力を尽く して被爆治療を妨害したのである。 第4に、被爆者を『治療』せず『実験動物』のように観察するABCC(原爆障害調査 委員会と訳された米軍施設)を広島・長崎に設置することであった。加害者が被害者を観察 するというその目的自体が被爆者への人権蹂躙ではなかったか」 http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhc700.html
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13 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2007/05/31(木) 16:08:04 ID:GTSEcGzf - 「空襲警報」で思い出したけど。若木重敏「広島反転爆撃の証明」という本がある。
エノラ・ゲイはいったん広島の上空から離脱して、「警報」が解除されて人々が防空壕から 出るなど油断しているところに原爆を投下したと若木氏は論じておったな。なぜかというと、 戦後、原子爆弾はどれだけ人体を破壊するのかというデーターを集めるために最大限の 被害を住民にもたらしておく必要があったというのだ。えげつないのお。ほんまえげつない。 http://higematsu-42.cocolog-nifty.com/blog/2006/08/post_551e.html なぜ、一度警戒警報を出させるような飛行経路をたどり、一度海に出るような面倒な動きを したのか。若木氏はいう。「警戒警報が発令されれば、人々はとにかく防空壕に入る。 その警報が解除になれば、緊張して防空壕の中に潜んでいた人々は我先に防空壕の外に 出る。そしてリラックスして不注意になるのである。当日の広島の暑さは27度あったという。 この朝の暑さは裸爆撃にもっとも好都合な状況であった」と。そして、「反転無警告爆撃の 凄まじいまでの成果が挙がった裏には、冷徹に計算しつくして、戦略を考えた演出者が いたにちがいない」と。 http://www.asaho.com/jpn/bkno/2005/0815.html しかしエノラゲイ機長のティベッツ大佐は、この悪魔の反転について 手紙で確認した秦郁彦氏に対し、これを否定しているそうです。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1310639958 129 名前: 名無しさん@3周年 投稿日: 03/05/12 01:28 ID:h9dxoXW/ >108 エノラ・ゲイは、一旦広島上空に侵入したが素通りし、反転して発見されないように 太陽を背にして再侵入してきたから、空襲警報を出せなかった。 有名な「反転爆撃」というやつ。ティベッツ機長はそれを否定しているが、米政府が いまだにエノラ・ゲイの飛行経路を公表しようとしないことから間違いないとみられる。 えげつない国だ。ついでに、火花が散るような見世物を先に落として、人々の注意を引き、 それから炸裂させたそうだ。だから、爆心地近くの人々はおびき出され、顔面をもろにやられた。 「広島反転爆撃の証明」 若木重敏 (文藝春秋 )という本が出版されている。
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14 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2007/05/31(木) 16:20:34 ID:GTSEcGzf - 読売新聞2002年8月15日付 社説
歴史をすなおに見直したい 他方で、東京裁判中は、英、仏、蘭によるアジアヘの再侵略も「同時進行中」だった。 オランダ軍がインドネシア独立軍と停戦協定を結んだのは、東京裁判終了の翌49年である。 ベトナム北部のディエンビエンフーでフランス軍が降伏したのは、54年になってのことだ。 第二次大戦で、日本はアジア「諸国」を侵略したわけではない。当時の東アジアには、 中国、タイのほかは、米、英、仏、蘭などの植民地しかなかった。大戦突入以前からの 日中戦争の継続局面を除けば、日本はこれら「欧米諸国の領土」に侵攻した、という戦争である。 http://www.ceres.dti.ne.jp/~mat/iitaihoudai/a0108.htm 2006年5月2日付・読売社説(1) [東京裁判60年]「戦争責任糾明は国民自身の手で」 東京裁判では、裁く側の“資格”にも問題があった。 判事席・検事席にいたソ連は、第2次大戦の初期、「侵略国」として国際連盟から除名された 国である。しかも、日ソ中立条約を破って参戦、60万人の日本兵捕虜らをシベリアに拉致して、 数万人を死亡させる理不尽な国際法違反の“現行犯”を継続中だった。 同じく「日本の侵略」を裁いた英仏蘭も、アジア「再侵略」の最中だった。オランダがイ ンドネシア独立軍と停戦協定を結ぶのは、東京裁判判決の翌年、49年だ。フランスは、 54年の軍事的大敗までベトナム再侵略を諦(あきら)めなかった。 http://iitaizou.at.webry.info/200605/article_13.html
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