- 松本・糸井「米国は原爆の事について謝れ!」
170 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2007/04/29(日) 12:08:55 ID:3NoGzl/R - 恋人からプレゼントされた、虐殺したジャップの頭蓋骨をうれしそうに眺める人食い人種【雨しろんぼの♀】
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- 松本・糸井「米国は原爆の事について謝れ!」
171 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2007/04/29(日) 12:10:03 ID:3NoGzl/R - サイパン戦で生き残った田中徳祐・元陸軍大尉(独立混成第47旅団)の証言
・「米軍は虐待しません」の呼びかけを信じて洞窟から出てきた婦女子全員が素っ裸にされ、 数台のトラックに積み込まれた。「殺して!」「殺して!」の絶叫を残してトラックは走り去った。 ・次には滑走路に集まった老人と子供の周りにガソリンがまかれ、火が付けられた。たちまち 阿鼻叫喚の巷と化した滑走路。我慢ならず我が兵が小銃射撃をしたが、米軍は全く無頓着に 蛮行を続ける。 ・火から逃れようとする老人や子供を、米軍はゲラゲラ笑いながら火の中へ蹴り飛ばしたり、 銃で突き飛ばして火の中へ投げ入れる。2人の米兵は草むらの中で泣いていた赤ん坊を 見つけると、両足を持って真っ二つに引き裂いて火中に投げ込んだ。「ギャッ!」といふ悲鳴を 残して蛙のように股裂きにされた日本の赤ん坊とそれを見て笑う鬼畜の米兵ども。 ・こんなに優勢な戦闘状況にも拘らず、米軍は毒ガス弾(赤筒弾)攻撃まで仕掛けてきた。 ・マッピ岬にたどり着いた田中大尉は、岩の間に一本の青竹を渡し、それに串刺しにされた 婦人を見た。さらに自分と同じ洞窟に居た兵士や住民が五体をバラバラに切り刻まれて 倒れているのを眼前に見た。 『正論』平成17年9月号「NHKウォッチング」 中村粲・元獨協大学教授、昭和史研究所代表
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- 松本・糸井「米国は原爆の事について謝れ!」
172 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2007/04/29(日) 12:11:53 ID:3NoGzl/R - 誰か昭和を想わざる 進駐軍犯罪史
昭和20年8/15から昭和27年4/28の平和条約発効までの間、日本はアメリカ進駐軍の支配 下にあった。この間、都内での進駐軍犯罪被害の届出318件、全国では25500件、ところがこ の数字「氷山の一角」とされていた。 なぜなら進駐軍犯罪被害の届出は非常に困難だったので、届出件数の数倍は実際の犯罪 被害はあったのではないか、と当時の人の生活感覚では感じられていたのである。進駐軍 犯罪被害で役所に届出を出すと、まず加害者が本当に進駐軍という証明書を要求される。 さらに市町村長の証明書、警察の証明書正副5通、少しでも不備があれば受理されない、これ をようやく揃えて、やっと届出が受理される。その数字が全国で25500件、であった。 つまり届け出なかった、書類に不備がありつき返された、揉み消された、などの犯罪被害の件 数は25500件の中には入っていないのである。 届出が受理されても、その審理は粗末なものだった。 子供が酔っ払いのアメリカ兵のジープに轢殺された母は被害届をようやくCID(陸軍犯罪調査部) に受理されるも、何の連絡もなく放置され、呼び出されて「裁判でお前が負けた」と言い渡されて 終わり。裁判があったのかなかったのか、あったとしたらどんな審理がされたのか、何も伝えら れないというシロモノだった。 さらには仕事帰りにアメリカ兵にジープに拉致され、走行中に道に飛び降りて死んだ娘は 「身元不明の売春婦」として処理され、家族が訴え出てもまともにとりあってもらえぬという酷さ。 他にも道路横断中、歩いているのが誰の目にも明らかなのに、アメリカ兵の運転するトラックが スピードを落さずにそのまま横断途中の日本人をひき殺すという事もあった。 あるいは突然、理由なくアメリカ兵に射殺されたり、道を歩いていて殴り殺されたり、強姦され たりなどの犯罪被害は総計3万4千件と言われたが、うち2万件は泣き寝入りしたとされている。
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173 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2007/04/29(日) 12:13:19 ID:3NoGzl/R - リンドバーグ著・第二次大戦日記、より
「翼よ、あれがパリの灯だ」で有名な初の大西洋横断飛行の チャールズ・A・リンドバーグ氏が従軍した時の日記(記録) 1944年6月21日(水) 偵察隊の一人が日本兵”捕虜”に煙草と火を与えた。煙草を吸い始め た途端に日本兵”捕虜”の頭部に腕が巻きつき喉元が「一方の耳元 から片方の耳元まで切り裂かれた」のだった 1944年6月26日(月) ニューギニア戦線で2000人の日本人捕虜を飛行場に連れて行き 機関銃を乱射して殺害しました。 1944年7月24日(月) そこには1人の日本軍将校と十人〜12人の日本兵の死体が、切り刻ま れた人体だけが見せるような身の毛もよだつ姿勢で四肢を伸ばしたまま 横たわっていた。頭蓋骨を覆う僅かな肉片だけが残っている。 1944年8月6日(日) 「オーストラリア軍の連中はもっとひどい。日本軍の捕虜を輸送機で南の 方に送らねばならなくなった時のことを知っているかね?あるパイロット など僕にこう言ったものだ・・・。捕虜を機上から山中に突き落とし ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告しただけの話さ」 1944年8月30日(水) タラワ島・・・・「英語を話せる者は尋問のため、連行されあとの連中は 一人も捕虜にせず虐殺した」という。
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174 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2007/04/29(日) 12:14:36 ID:3NoGzl/R - 1946年、東京・大森で恐ろしい事件が起こった。中村病院は3台のトラックに分乗した
「米兵」によって、1時間近くも病院中を荒らされた。彼らの総数は2百人とも3百人とも 言われている。 婦人患者のうち重傷者を除く四十数人と看護婦十七人、ほかに十五ないし二十人の 付添婦・雑役婦などが陵辱された。 「彼ら(アメリカ兵)は大病室に乱入し、妊婦・産婦・病気の婦人達のふとんを剥ぎ取り、 その上に乗りかかった」 「二日前に生まれたばかりの赤ちゃんフミ子ちゃんは、床に蹴落とされて死んだ」 「M子などは続け様に七人の兵隊に犯され、気絶した」 そして、「裸でころがっている間を通って、侵入してきたときと同様、彼らは表玄関と 裏口から引き上げていった」
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