- 魏志倭人伝の真実
33 :名無氏物語[]:2021/04/11(日) 13:17:43.77 ID:XXbxIxhq - 畿内説は視野が狭く考えが浅すぎる
文献を無視するなら邪馬台国論争に首を突っ込むべきではない https://i.imgur.com/TKTkTp9.png ■基本的に魏志倭人伝の構文解析が最優先課題である 同じ内容で使われる文字が変化したり、奴国の紹介が重複していたり、距離が里から日に変わるなど、 魏志倭人伝は過去の記録を引用しつつ、新たに得た情報を大雑把に追記する形式で構成されている ■中国に伝わる古い伝承記録から書き写した部分 ・帯方郡(ソウル)から南→東と海岸沿いに水行し狗邪韓国(釜山)までの距離が約7000里 ・対馬→壱岐→北部九州上陸までの合計が約3000里 ・上陸してから伊都国までが陸行およそ500里 ・奴国、不彌国までがそれぞれ約100里 ・陳寿は単純に帯方郡から女王の都までの総距離を合計12000里と見積もった 参照した記録資料の1里は75mだったが、陳寿は1里=435mの認識だった(例 会稽東冶の東) ■卑弥呼時代に朝貢に来た倭人による行程説明を追記した部分(日数表記の記録) @帯方郡から(記載漏れ?) A南に船で20日→投馬国(任那、伽耶、狗邪韓国など) B南に船で10日→邪馬台国(北部九州=女王国)上陸 Cまず伊都国に駐留し、女王国の入国許可を待つ D倭人か客人の到着を女王に知らせに行く E女王の使者が迎えに来る F迎えに来た護衛とともに女王の都へ ■考えられること ・中国人と倭人との意思疎通は完全ではなく、誤解は日常茶飯事だった ・陳寿は倭に関する古い情報と新しい情報の関連性がよく理解できていなかった ・倭人による船で移動する行程の説明を中国は「水行」と記録していた ・倭人は対馬海峡を挟んで半島側を投馬国と呼び、北部九州側を邪馬壹(臺)国と呼んでいた ・倭人は距離単位の「里」を知らず「日」を使って表現していた(隋書倭国伝に記載あり) ・陸行一月とは、女王の都に到着するまで(C〜F)に一か月を要するという意味である
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