- 古文が根本的に解らない奴の為の参考書
30 :名無氏物語[]:2012/01/15(日) 21:27:47.27 ID:rsqhXprq - >>29
>>29が高校生ということ前提で話すが、 古語と現代語では語彙が異なっており、両方に共通している語もあれば、片方に用いられるがもう片方では用いられない語もある。 古語Aと現代語Bの語彙についてベン図(数学で習ったであろう円の交差・包含によって集合の関係を表す図)を書いたときの ・A∩Bの部分を「現古共通語」 ・A\Bの部分を「純古語」 ・B\Aの部分を「純現代語」と仮に名づける。 現古共通語には、たとえば 犬、取る、遠し、明らかなりなどがある。 純古語には、なづき(=頭)、うけふ(=誓う) 、うたてし(=嫌な)などがある。 純現代語にはたとえばパソコンのような外来語や、明治時代以後にできた漢語などがある。 古語の単語をおぼえるときには、まず純古語と現古共通語を分けてあつかうのがよい。 古文を読むときに、純古語を知らないのと現古共通語を知らないのとでは影響が変わってくる。 純古語について知らない場合、現代語にたよれないのでその部分は何を意味しているのか空白になる。 現古共通語について知らない場合、現代語にたよって多少不正確だが強引にこんなことだろうと推測することができる。 たとえば「かだましき人」という語句があったとしよう。これは「かだまし」という形容詞だということは簡単に分かるが、 前後の文脈の助けはあるものの、かだましが姦悪なという意味だと知っていないと、理解に支障がでる。 一方で「月くまなし」という語句なら、くまなく探す=すみずみまで全部さがすということだから、 なんとなく、光の欠けているところがないという意味だろうと考えられる。 同じ1語をおぼえるなら、純古語のほうが利が大きい。 ただし古語と現代語で意味の離れた語は推測がきかないので、純古語と同じにあつかう。 (たとえば「ののしる」「かなし」「やうやく」「すなはち」「かたき」「うつくし」) そこでおぼえるべき優先度は 純古語=意味の大きく異なる現古共通語 >(多くの)現古共通語 となる。
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31 :名無氏物語[]:2012/01/15(日) 21:54:22.05 ID:rsqhXprq - 古文と英語、この二つは言葉の勉強という点では同じだから、根本は同じだ。だがおさえるべきツボはちがう。
文章を読むにはそれなりに単語を知っていない。 英語の場合、(日本語しか使っていない人にとって)知っている単語の数がゼロから勉強がはじまるから、 文章が読めるようになるのに必要なラインに達することが重要になってくる。つまり語彙力が英語力のそこそこの割合を占める。 だが古文の場合、古語と現代語で語彙に共通する部分がかなりあるので、すでにかなりの語彙を知っている状態からスタートする。 また古文であつかわれるのは和文体だ。和文体は漢語の量が少なく、基礎的な和語が多く出てくる。 そこで古文は英語と比べて、単語のハードルは低いのだね。 単語が覚えられないことを過度に気にする必要はない。
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32 :名無氏物語[]:2012/01/15(日) 22:17:12.16 ID:rsqhXprq - 古文が厄介な点は単語よりは別のところにある。
それは一つには文法。これは言わずもがなだが、文法に異なる点があるのでそのために読んでいるとつまる。 これは文法の勉強でどうにかなる。 そして一つは文の長さと文どうしのつなぎ方。これがけっこう大きい。 和文体は伝統的に、一文が長く、用言の連用形や接続助詞をつけた形をいくつも連ねていくスタイルをとるものが多い。 〜〜し、〜〜し、〜〜なれど、〜〜すれば、〜するに、〜〜こそ〜にけれ とかこの手の文のくりかえしでできている。 ところが現代の、今自分たちの読んでいる文章といえば、なまじ近代化されていて、論理的な表現がよいとされているために、 文はある程度の長さで区切るし、「また」とか「そして」とか「よって」とか、 文どうしの意味のつながりを表す語も多用される。 そこで、読みとりやすく書かれている現代語に慣れた感覚のまま古文にのぞむと、調子が狂わされる。 この点を自覚して読むと心理的にだいぶちがう。
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