- サバイバルナイフ総合雑談スレ53
944 :名前なカッター(ノ∀`)[sage]:2014/01/14(火) 18:38:02.09 ID:R0Bu3u/y - >>942
そもそも日本に住んでいながら 「日本刀はマニアック、ナイフはまあ普通」という風潮が嘆かわしいな
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949 :名前なカッター(ノ∀`)[sage]:2014/01/14(火) 19:27:23.32 ID:R0Bu3u/y - >>947
そんなこと言ってると魂が失われるぞ カローラのエンジン積んだフェラーリのごとく(いやカローラのエンジン自体はいいものだが)
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950 :名前なカッター(ノ∀`)[sage]:2014/01/14(火) 19:52:24.37 ID:R0Bu3u/y - 信州松代藩の荒試し
http://blog.goo.ne.jp/kelu-cafe/e/50637b7487e11ab6fc2578d1ec6ee425 幕末の信州小諸の名工山浦真雄は、江戸で「四谷正宗」と呼ばれた源清麿(本名山浦環(たまき))の兄である。 真雄は信州の郷士の嫡男で、初め剣を志し、江戸下谷練塀小路の一刀流中西道場で学んだ。心形刀流と真心流剣術も修めた。 やがて彼は、剣士にとって生命ともいうべき刀の目利きに異常に執着し、試刀を繰り返す。しかし、本当に気に入った刀がどうしても見つからない。 そこで、遂に自分が刀工になってしまったのである。 小諸藩一万五千石牧野家の扶持を得て鍛刀に励んだが、やがて信州上田藩五万三千石松平家に移った。 信州において、「信州正宗」の評判を得た真雄が隣藩の松代に出かけて行った際、 松代十万石真田家から招聘の話が起こったのは嘉永6年(1853)2月頃だったらしい。 松代にいる真雄に真田家家老真田志麻が試し切り、打切り試しを命じた。 しかも、沸出来が得意か匂出来が得手かとわざわざ尋ね、真雄が 「沸出来は姿は華美だが自分は得意ではない。実戦用には匂物がよいと思うし、これなら得手である」 と答えたのに対して、それならその不得手な沸出来の刀で試したい、と申し入れ過酷な条件を付加したが、これには実は訳があった。 それより20年も前の天保4年(1833)、松代藩主真田幸貫は、せまる外敵からの危機を予見して藩内の武器拡充策を計った。 非常時における藩士用の長巻(ながまき=なぎなたに似た刀剣)と刀を大量に注文したのだ。 この時、その仕事を一手に引き受けた刀工が、華美な刀剣を嫌って古伝の鍛刀に戻れと自著『刀剣武用論』で気を吐いた水心子正秀(本名川部儀八郎) の下に集まった百余名の弟子のうちの一人、出藍の誉れ高いと謳われた江戸の大慶直胤(たいけいなおたね)であった。 直胤は当時の真田家江戸家老千四百石矢沢監物がひいきにしていた江戸随一といわれていた刀工だった。 その関係で真田藩の上士たちは、江戸に出れば直胤の刀を手に入れたという。 この注文によって長巻50振り、刀100振り以上が直胤により真田藩に納められた。 その直胤の刀が、松代で脆くも折れた事件が起こった。 何人かの武士がこの噂をききつけ、自分の差し料の直胤で試した。 やはり簡単に折れる。 大騒動になった。 平山行蔵の高弟だった山寺常山は、真田藩の寺社奉行を務めていたが、噂を聞いて早速試した。 古刀五郎入道正宗との比較も試み、このためあたら正宗を一振り廃物にしている。 この結果、激怒して大慶直胤を「大偽物(おおにせもの)」と罵倒し、 「十年前に戻れるなら、評判に惑わされた世人の目を醒まさせるために、 直胤の刀を真っ二つに叩き折ってやるところだが、今、目の前にいなくて本人も運のよい男だ」と手紙に書いているほどだ。 直胤の庇護者の矢沢監物が死ぬと、松代藩と大慶直胤との縁はぷつりと切れたという。 こうした歴史があったので、松代藩は真雄に過酷な条件を強いたのである。
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