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名無しを整える。
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 3

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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 3
574 :名無しを整える。[sage]:2019/05/17(金) 00:59:36.42 ID:ArIfmJdL
かつてのたくましかった肉体はどこへやら、まだ三十の半ばだというのに、老人のようにすっかり衰弱し、骨と皮のみになって、死を待つ者の姿がそこにあった。

ゆるやかに流れるネランジャラ河は、衰弱した肉体を清め、すすいでくれた。
腰までつかって水面を覗くと、そこに映った自分の顔は、まるで他人みたいであった。
六年前も今も、心には何の変化もないのに、肉体の方は全然別人だった。

しばらく牧草の砂地に腰をおろしていると、女の歌声が風に乗ってきこえてきた。


弦の音は、強く締めれば糸は切れ

弦の音は、弱くては音色が悪い

弦の音は、中ほどに締めて音色がよい

調子合わせて踊ろよ踊れ

みんな輪になり踊ろよ踊れ


若く澄んだ女の美声は、ゴータマの心をゆり動かした。
「弦の音は、中ほどに締めれば音色がよい」

もう一度、歌の文句を心のなかで反復した。
今迄求めてきた謎が、この歌声によって天啓のように氷解するのだった。
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575 :名無しを整える。[sage]:2019/05/17(金) 01:02:37.30 ID:ArIfmJdL
ゴータマは、スジャータに礼をいうと、五人の修行者達のところに行き、彼女からもらった牛乳を口にした。

「あなたは修行をやめたのですか、修行者は生臭いものを口にしてはいけないはずです。」

ゴータマは五人の顔を眺め、
「このまま肉体行を続けていては、悟らないうちに肉体が滅んでしまう。
私は骨と皮になったこの肉体を作り直そうと決心したのだ。」
ときっぱり言った。

五人は何やら相談していたが、代表格のコースタニヤが言い放った。
「今までは弟子としてあなたをお守りしてきたが、もう王子でも師でもない。
あなたの自由にしなさい。」


修行はもともと一人である。
悟りも自分が悟るので、友ではない。
ゴータマは森に帰って、ビパラの大木を見つけると、悟るまでは、決してここから動くまいと思うのだった。
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576 :名無しを整える。[sage]:2019/05/17(金) 01:05:44.86 ID:ArIfmJdL
ふと瞑想中に心がゆれ動いた。
すると耳元に女の声がきこえてきた。

「シッタルターさま、私でございます。」

思わず、ゴータマは眼を見開いた。暗闇のなかに、ヤショダラの姿があるではないか。

男を求める女のあやしい姿がそこに映っている。
体をくねらせ、春を売ろうとする女に変っていた。

(悪魔だ)

そう思った瞬間に、女の姿は消え、ゴータマの体は梵天の光りに覆われていた。

悪魔とは、人間の体に巣をつくる回虫のようなものである。
悪魔に魅入られると、人は正常心を失ない、やたらと闘争心がつのってくる。
そして、自分に敵対するものは情け容赦もなく、これを倒さずには済まなくなってくる。

弱者をあざわらい、人の不幸に冷然としていられる。
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577 :名無しを整える。[sage]:2019/05/17(金) 01:08:16.20 ID:ArIfmJdL
人の不幸や悲しみを喜ぶ者はない。
だが、自分と競争相手にあるとか、頭を四六時中押さえつけている人が、たまたま何かがあると、
(ざまあみろ)
という心を持たない人は少ないであろう。

悪魔はそうした、人の不幸を喜ぶ人の心を支配するのである。
人の不幸を喜ぶ程度が強くなるにしたがって、身体が重くなり、環境が不調和になる。

人間社会が混乱し、人の心が荒んでくると悪魔となってあの世へ帰った人霊達が、現象世界の人々の不調和な心によって引き寄せられ、一層悪事を働くようになるのである。

ゴータマは、自分の心の隅に、まだそのような想念の残骸があったことに気づき、そうした悪魔の誘惑に負けてはならぬと心を引き締めるのであった。
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578 :名無しを整える。[sage]:2019/05/17(金) 01:12:04.54 ID:ArIfmJdL
肉体には肉体の役割がある。
その役割をなおざりにしてまで、なお悟りがあるとするのは明らかに邪道であり、観念の遊戯にすぎない。
悟りという心の問題は、健康な肉体と健全な心にある。
病弱で意識が不明瞭な者にどうして、仏の心を自覚させることが出来よう。

食べるものも食べず、摂るものも摂らず、肉体をどんなに苦しめてみても、心は安らかにならない。
肉体を苦しめる苦行によって悟ることが出来るのなら、過去に苦行をした人たちの中から悟った人が出ていてもよいわけであるが、誰も出ていない。

「生まれて来なければ、このような苦しみを受けずにすむものを、」と考えるが、
生れてきた以上は人間には何らかの目的と意味があるはずである。
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579 :名無しを整える。[sage]:2019/05/17(金) 01:15:44.68 ID:ArIfmJdL
いかなる者も、いつかは年をとり、病気をし死んでゆく。
何人も死から逃れることはできない。

死ぬ時は地位も名誉も、財産も、全てこの地に置いて行かなければならない。
それは皆分かっているのに、それでも欲望の火は消えぬ。

五官を通して知る現象世界は無常である。

無常と知りながらも、欲望をつのらせて無常なるものに執着している。
所詮、人生は苦しみの連続なのか、苦しみのない人生があるとすれば、それは現実との妥協か、逃避か、自己満足ではないのか。

苦しみのくり返しは、人間にとって最大の不幸である。
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580 :名無しを整える。[sage]:2019/05/17(金) 01:18:33.26 ID:ArIfmJdL
苦しみの原因は心が間題なのだ。
思うこと考えることの心の作用が、諸々の苦しみ悩みを生み出している。

勝ち負けの輪廻は、その渦中からぬけ出さないかぎり永遠に続く。
苦しみの輪廻は、その苦しみの中に想いが留まる限り、果てしなく続いてゆく。

中道にそった調和を志さない間は、真の幸せをつかむことはできない。
己れという我の立場に固執していては、正しさを求めることができない。

現れた現象の奥には、必ずその現象を映し出す原因があるはずである。
自分に直接関係のある問題が派生した場合は、まず自分自身の心の姿を見ることが大事だ。
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581 :名無しを整える。[sage]:2019/05/17(金) 01:23:44.94 ID:ArIfmJdL
各人の心は鏡である。
その想念という鏡を絶えず掃除しておくことだ。

掃除するということは反省するということである。
反省は光明の仏の世界に住するかけ橋である。

ねたみ、怒り、そしり、そうして諸々の執着から離れるには、過去の反省をおいて他にない。
心、言葉、行いの反省を重ねることによって心と肉体の調和が生れ、進んでは己の心と仏の心との合一がはかられる。

反省をせずして心を空にすると、魔や憑依霊に支配される。

人間生活にとって祈りのない生活は考えられない。
正しい調和の生活に向って努めている時の願いごと、祈りは、その人にふさわしいものである限り必ず叶えられる。

しかし我欲を満たす事だけを祈ってはならない。
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582 :名無しを整える。[sage]:2019/05/17(金) 01:26:41.47 ID:ArIfmJdL
悟りへの重要な過程は、心の内面に対する反省であり、ものの見方、考え方、捉え方、そしてそれに基づく言葉と行動が、果たして正しいものであるかどうかを、内省することがキメ手になるのである。

過去のことに執着を持つと、これからの行動が束縛され、本来の自由性がそこなわれる。
悪かったことを悪かったと認めても、それに囚われると暗い想念を創り出してしまう。

この点も中道の心が大事である。

反省の功徳は、反省した後の「実践」にかかっている。
その実践の功徳は心身の調和という姿で顕われてくる。
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583 :名無しを整える。[sage]:2019/05/17(金) 01:31:51.92 ID:ArIfmJdL
ゴータマは三歳の時から、ウパニシャッドやヴェーダを教えられた。
それは知的に体系づけられていたが、教える学者達の生活は乱れていた。
ブフラマンやインドラの神に祭壇をつくって祈りさえすれば、心はどうしなくても救われると思っている。

また一般の信者が直接神に祈っても救われない、必ずバラモンの司祭という代理を立てて祈らないと、神さまは救って下さらないという。

そうして心の奥底に潜む心の原因については、全く手を染めようとはしなかった。

アポロキテー・シュパラー(観自在の境地)に至るには、心と行いという実践しか残されていない。
真実の悟りを希求するならば、その前にまず心の曇りを払いのけることであった。
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584 :名無しを整える。[sage]:2019/05/17(金) 01:41:19.95 ID:ArIfmJdL
求道
解脱は疑問から出発する。

疑問を持たない求道などあり得ない。
疑問は探求心を育て、探究心はやがて解答を得て理解されてくる。

普通は中道という修行の尺度を知らないために、求道の方向を見誤ってしまう場合が非常に多い。
しかし八正道という尺度が発見された以上は、疑問は安易に理解されてゆく。

間題は、その中道の尺度を使って、自分自身がどこまで「厳格」に、「公平」に、自分の心を見つめる事が出来るかである。
自分の心で、自分の心の影をどこまで洗い出せるかにかかっている。

心に影が潜む間は、生老病死の執着は決して断てないのだ。


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