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名無しを整える。
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ

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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ
238 :名無しを整える。[sage]:2017/12/18(月) 19:29:33.64 ID:pbsNnzN1
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、14、迅 速

921[質問者はいわく]、「眼を開いた人は、みずから体験したことがら、危難の克服、を説いてくださいました。ねがわくは正しい道を説いてください。戒律規定や、精神安定の法をも説いてください。」

922 [師いわく]、「眼で見ることを貪ってはならない。卑俗な話から耳を遠ざけよ。味に耽溺してはならない。世間における何ものをも、わかものであるとみなして固執してはならない。

923 苦痛を感じるときがあっても、修行者は決して悲嘆してはならない。生存を貪り求めてはならない。恐ろしいものに出会っても、慄(フル)えてはならない。

924 食物や飲料や堅い食べものや衣服を得ても、貯蔵してはならない。またそれらがえられないからとて心配してはならない。

925 こころを安定させよう。うろついてはならないるあとで後悔するようなことをやめよ。怠けてはならなぬ。そうして修行者は閑静な座所・臥所に住むべきである。

926 多く眠ってはならぬ。熱心に努め、目ざめているべきである。ものぐさと偽りと談笑と遊戯と婬欲の交わりと装飾とを捨てよ。

927 わが徒は、アタルヴァーダの呪法と夢占いと相の占いとを行ってはならない。鳥獣の声を占ったり、懐妊術や医術を行ったりしてはならない。
(´・(ェ)・`)つ
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ
239 :名無しを整える。[sage]:2017/12/18(月) 19:33:13.46 ID:pbsNnzN1
>>238
○毎田周一先生訳
921.
「明らかな眼を以てあなたが自ら証しせられた煩いを除く法を
いまお聞きしました。
尊き方よ 更に正しい行いについてお示し下さい
人の必ずせねばならぬことと 深く思わねばならぬこととはなんでしょうか」

前半は第一の質問の解答へのお礼の言葉。後半では、修行実践の道(方法)と戒律条項、心の統一についての質問。

○毎田周一先生訳
922.
「目に見えるものを貪り求めず
つまらぬざれ言に耳を貸さず
美味なものを無闇に欲しがらず
世間の何事も愛好せぬがよい

具体的で分かりやすいが、実践することは難しいす。なぜならば、基本的に私達は楽しみたいと思っているから。物を見て楽しみたい。音を聞いて楽しみたい。食べて楽しみたいと思っている。
だから、「眼で見ることを貪ってはならない。卑俗な話から耳を遠ざけよ。味に耽溺してはならない。」と言われてもなかなか出来ない。ではどうするのか?
 眼で見ることを貪ることによって、どのような苦しみを生み出しているのか調べること。
四行目、「世間の何事も愛好せぬがよい」=「世間における何ものをも、わがものであるとみなして固執してはならない。」=「世において、何であれ、わがものと〔錯視〕しないように。」
とは、楽しみたいという思いを打ち消すための言葉。世間の何事も楽しめるというよりは、それらに耽溺すれば苦を生み出すことを知らなければならない。それが分かれば、ブッダの今回の言葉を実践できるようになる。

○毎田周一先生訳
923.
刺すような苦痛に会っても
修行者は決して泣き悲しまず
どうしても生きたいなど命を貪らず
恐ろしいものに出会っても震えぬがよい

一行目の直訳は、「触れて感じた時に」だが、二行目は「修行者は決して悲嘆してはならない」だから、苦しくなるものに触れた時のようである。だから、正田先生は病気や飢えを補って訳されている。
そこで、何故このような苦痛に会った時も、修行者は嘆き悲しんではいけないのか?
苦痛に対して嘆かないことは、完全な感官の防護。感覚に対する刺激から心が汚れないように守るため。
凡夫であるならばこのような苦痛に対して嘆くことは普通のことだが、修行者たるものは、心を守ることは重要な修行だから、たとえ大きな苦痛であっても耐え忍ぶべき。
三行目、「どうしても生きたいなど命を貪らず」=「生存を貪り求めてはならない」=「〔迷いの〕生存を渇望しないように」について説明。
大きな苦痛に対して嘆き悲しむのは、生命の危機を感じるから。
生命の危機に対しても動じない修行者は、痛い時は痛いが、嘆き悲しむことがない。何故ならば彼にとっては自分の生命より大切なものがあるから。それは真理の探究。彼は真理の探究にとって嘆くことが相応しくないのであれば嘆かない。
三行目「恐ろしいものに出会っても震えぬがよい」も、恐ろしいものに出会って震えるのは命が惜しいから。」
真理のためならば、命も惜しくない修行者は、恐ろしいものに出会っても震えないす。」彼には「悪事を働くこと」以外に恐ろしいものはない。
(´・(ェ)・`)つ
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ
240 :名無しを整える。[sage]:2017/12/18(月) 19:39:42.82 ID:pbsNnzN1
>>238
○毎田周一先生訳
924.
食べものや飲みものや
保存の出来る食物や衣服を受けても
それを貯えるようなことはせず
又それが手に入らなくてもくよくよせぬがよい

922の四行目で「世間における何ものをも、わがものであるとみなして固執してはならない。」と述べられてた。
貯蔵するということは、それに対して「わがもの」という思いがある。
「わがもの」という思いは「私がある」という思いにつながる。このような発想は、無我を体得しようという修行に逆行する。だから「貯蔵してはならない。」
924の四行目、「またそれらがえられないからとて心配してはならない。」
出家して修行することは、他の人々に与えられたもので命をつなぐ覚悟を決めている筈だから、何日か食べ物を得られないことがあっても心配するべきではない。
また、仏教には「業」という考え方がある。業によって寿命が決まっている。その寿命を全うする糧は得られるということも決まっている。だからじたばたしなくともよい。
食べ物があっても死ぬ時は死に、寿命があれば必ず、そのために必要な食べ物は与えられる。仏教を信じ、業を信じているものは食べ物が得られなくとも心配してはならない。

○毎田周一先生訳
925.
修行者はどこ迄も深くものを考えて さまよい歩かず
悔いることを止め 時を無駄に過ごさず
騒音を離れたところに
坐る場所 臥せる場所を求めて そこに住むがよい

始めの言葉Jhyを、毎田先生は「修行者はどこ迄も深くものを考えて」、中村先生は「こころを安定させよう」、そして正田先生は「瞑想者は」と訳しました。どの訳も可能。ここでは中村先生の訳を中心にして、解説。
@こころを安定させよう。
これは瞑想すること。毎田先生は、瞑想することを「どこまでも深く考えていること」と考えている。
Aうろついてはならない。
パーリ語を分析して意味をとると、正田先生の捕捉的訳にあるように、「欲望の対象を求めて歩き回ること」。
Bあとで後悔するようなことをやめよ。
この訳からは、悪行為をしないことという意味にもとれるが、パーリ語の意味は「後悔することを止めるように」。
後悔はなぜいけないか? 後悔している時は気づきを怠っている。時間を無駄に使っている。また心が落ち込み、暗くなるから。さらに、後悔すると、二重に悪行為をすることになる。
すなわち、悪行為したという悪行為と、そのために、後悔するという悪行為を重ねるということ。
C怠けてはならぬ。
これは単に、仕事や勉強を怠けるなという意味ではなく、正田先生の訳のように「〔常に気づきを〕怠らないように」ということ。
仏教用語としては不放逸という言葉を使う。この言葉を毎田先生は「時を無駄に過ごさず」としている。気づきを怠らないということは、今の瞬間に気づいていることで、今を生きているという意味。
Dそうして修行者は閑静な座所・臥所に住むべきである。
修行者はあくまでも、心の静けさを求めて修行すべきだが、環境も大切で、静かな場所の方が修行は実践しやすい。
(´・(ェ)・`)つ
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ
241 :名無しを整える。[sage]:2017/12/18(月) 19:42:08.32 ID:pbsNnzN1
>>238
○毎田周一先生訳
926.
眠りを貪ることなく
注意深く 生々と働き
不精と 偽善と 冗談と 娯楽と
性の関係と 上辺を飾ることとを止めるがよい

@多く眠ってはならぬ。
眠っている間は心を育てるということは出来ない。だから修行は眠りを貪ってはならない。
多く食べると多くの睡眠を必要とする。食物の消化・吸収・排泄のために多くのエネルギーが必要だから。修行のために必要な食物だけを取るようにすると、睡眠時間が少なくて済む。
A熱心に努め、目ざめているべきである。
気づきを絶やさない(不放逸)ために、目ざめている必要がある。そのために、熱心にということが必要。大念処経やその他の経典にも「熱心に、正知をそなえ、念をそなえ」と三セットで繰り返し述べられている。
B不精=ものぐさ=倦怠を止めるがよい。
不精、ものぐさはやるべきことをやらないこと。倦怠はいやになって止めること。
これで修行が完成するはずはない。この反対のことで修行が完成する。やるべきことはやる。嫌になっても完成するまでは止めない。これで修行が完成する。
C偽善=偽り=幻想を止めるがよい。
この三つを並べると意味が分かりにくいが、妄想を止めて、真実を見て、真実のある真心のある行ないをすること。
D冗談=談笑=笑喜を止めるがよい。
E娯楽=遊戯=遊興を止めるがよい。
DEは一緒に考えてもよいでしょう。今私達は苦の世界で生きていることが事実。そのことから眼を背けて、談笑し、面白可笑しく、遊びほけてよいのか。この苦しみにみちた輪廻を無限に繰り返すことになる。
ダンマパダ146「何の笑いがあろうか。何の喜びがあろうか。
世間は燃えているのに
汝らは暗黒におおわれている。
どうして燈明を求めないのか?」(中村先生訳)
F性の関係=淫欲のまじわり=淫欲を止めるがよい。
性の関係には二つの側面がある。一つは種の保存。もう一つは快楽の追及。淫欲を止めるがよいというと子孫が絶えてしまうと言いう人がいるが、この項は修行者に対して述べられてもので、一般の人々に述べているのではない。
快楽の追及に関しては、修行者にとっては楽の中で苦を見出すことが重要な課題。楽に惑わされて輪廻を繰り返しているわだから。
G上辺を飾ること=装飾=〔身を〕飾り立てることを止めるがよい。
上辺を飾ること、おしゃれをすること、化粧をすること等は、何故行うのか? 
修行者のなすべきことは心を清らかにすること、心を育てること。上辺を気にすることは見当違いの行ない。時間の無駄。ありもしない自分を飾って、しかも上辺を飾って何の意味があるか。

○毎田周一先生訳
927.
妖術と 夢占いと 人相を見ることと
それから又星占いなどをせず
鳥や獣の声を占ったり 子を授かる法や
医術を施すことをすき好んでせぬがよい

占いは昔から、現在も人気のあるもの。占いが人気があるのは、人間は無知のために、すべての事柄に対して不安で、一時的でも安心できる拠り所が欲しいから。
しかし、ではなぜブッダは弟子達に占いを禁じたのか?その基本は、自ら真理を発見するため。迷信、根拠のない事柄を盲信するという態度では真理を発見できないから。
占いを信じるようでは、真理探究の修行を正しく進められないから。
後半では、懐妊術(子を授かる法)や治療についても弟子達に禁じている。これはなぜか? 子を授かる法や治療は信者さんに喜ばれることではあるが、それは仏弟子の行うべき仕事ではない。
それらの分野は肉体に関する事柄でそれらの専門家に任せること。仏弟子は自分自身の心の清浄と成長を中心に取り組み、信者さんの心の成長や安穏のために働くべきだから。
(´・(ェ)・`)つ


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