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名無しを整える。
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ

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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ
169 :名無しを整える。[sage]:2017/12/07(木) 18:38:43.34 ID:Kx9Ri+sP
>>168
鬼和尚こんばんは。
ありのままを観察すればよいだけ、ということは、実践してみれば誰でもくまでも、その効果、(=諸々の観念のによる拘束からの解放)を容易に実感できるのと思うのでありますが、それを伝えるのは難しいでありますね。
(´・(ェ)・`)つ
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170 :名無しを整える。[sage]:2017/12/07(木) 18:42:10.29 ID:Kx9Ri+sP
ブッダのことば(スッタニパータ)
第4 八つの詩句の章、8、パスーラ

824 かれらは「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の教えが清らかでないと説く。「自分が依拠しているもののみを善である」と説きながら、それぞれ別々の真理に固執している。

825 かれらは論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を<愚者である>と烙印し、他人(師など)をかさに着て、論争を交わす。──みずから真理に達したものであると称しながら、自分が称賛されるようにと望んでいる。

826 集会の中で論争に参加した者は、称賛されようと欲して、おずおずしている。そうして敗北してはうちしおれ、(論敵の)あらさがしをしているのに、(他人から)論難されると、怒る。

827 諸々の審判者がかれの所論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といっい悲泣する。

828 これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には得意と失意とがある。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。

829 あるいはまた集会の中で議論を述べて、それについて称賛されると、心の中に期待したような利益を得て、かれはそのために喜んで、心が高ぶる。

830 心の高ぶりというものは、かれの害われる場所である。しかるにかれは慢心・増上慢心の言をなす。このことわりを見て、論争してはならない。諸々の熟達せる人々は、「それによって清浄が達成される」とは説かないからである。

831 たとえぱ王に養われてきた勇士が、相手の勇士を求めて、喚声を挙げて進んでゆくようなものである。勇士よ。かの(汝にふさわしい、真理に達した人の)いるところに到れ。相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。

832 (特殊な)偏見を固執して論争し、「これのみが真実である」と言う人々がいるならば、汝はかれに言え、──「論争が起っても、汝と対論する者はここにいない」と。

833 またかれらは対立を離脱して行い、一つの見解を[他の]諸々の偏見と抗争させない人々なのであるが、かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか? パスーラよ。
かれらの間で、「最上のもの」として固執されたものは、ここには存在しないのである。

834 さてあなたは(「自分こそ勝利を得るであろう」と)思いをめぐらし、心中にもろもろの偏見を考えて、邪悪を掃い除いた人(ブッダ)と論争しようと、やって来られたが、あなたも実にそけだけならば、それを実現することは、とてもできない。

(´・(ェ)・`)つ
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ
171 :名無しを整える。[sage]:2017/12/07(木) 19:07:33.53 ID:Kx9Ri+sP
>>170
○毎田周一先生訳
824.
人々は「これだけが清らかだ」と主張して
他の教えは清らかでないないという――
そして自分の立場だけを認めることによって
実は色々の 自分だけの真理というものにとりついている

「パスーラ経」のあらすじは特定な見解に固執して論争することの無意味さを教えるもの。ブッダは最後にパスーラに呼びかけて、煩悩を離れた者(ブッダ)と論争することが出来ないことを示唆する。
注釈書によるとこの経の因縁物語は、遊行者パスーラはサーリプッタ長老と欲望に関する論争に負けたので、仏教僧団の中で出家した。しかし指導する師僧を議論で負かした。そして今度はブッダに論争を挑んだ。
彼が祇園精舎のブッダのもとに行くと、神の力で一言も口をきくことが出来なくなった。それに対してブッダがこの経を説いたということ。

「ここにのみ清らかさがある」と言った時点、この見解は仏法(真理)ではないと、毎田先生は解説する。
「ここにのみ」ということは「ここ以外のもの」との対立を作る。対立すれば、異なる見解が現れるからである。異なる見解が現れると論争が現れる。

○毎田周一先生訳
825.
この人達はひとといい争うことが好きで 集りの中に入ってゆき
互いに反対して相手を愚かものと見なし
自分はほめられたいと思って 如何にも道理の解ったような顔をしてものをいい
他人と対立しながらただいい争っている。

○毎田周一先生訳
826.
人の集りの中でいい争うことになったものは
ほめられることを望んで 敗けないように心を砕くが
その甲斐もなく 相手に押切られると 口惜しさに堪えられず
自分も人の弱点を探しているのに 相手が自分の間違いを衝いたことを怒る

議論好きが、論争に参加した時の心理状態を細かく描かれている。

○毎田周一先生訳
827.
いい争うのを裁く人達が あなたのいうことには欠陥がある
だからあなたの方の敗けだというと
その論争に負けたひとは 泣き悲しんで
「あの人が自分を負かしたのだ」と口惜しがる

○毎田周一先生訳
828.
こんないい争いが道を修める人達の間に起こると
彼等の中に勝つと負けるとかいうことがあることになる
こんなことをみてもひとは論争を離れねばならぬ
何故ならそこにはほめられたということの外に何の利益もないからである

真理を求め修行する人は、他人の評価でなく、自分自身で真理を発見しなければならないから、他人の評価に依存する態度は修行の妨げになる。
真理の発見は心の変革と結びついた事柄。他人の評価ではなく、また何ものにも依存しない心の状態の時、そこに真理が現れる。その意味で論争の無意味さを本当に知った時、真理が理解できる。

(´・(ェ)・`)つ
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172 :名無しを整える。[sage]:2017/12/07(木) 19:09:34.26 ID:Kx9Ri+sP
>>170
○毎田周一先生訳
829.
あるいはまた人の集りの中で 自分の考えを述べて
それがほめられると
その人がかねて望んでいた利益を得たのだから
如何にも得意そうに自惚れることになる

実は褒められることは利益になるかどうかわからない。
人は褒められると嬉しくなる。褒められても自分はまだまだと思う謙虚な人は素晴らしが、多くの人は、心が高ぶる。中村先生の訳で「心が高ぶる」とは高慢になるということ。この高慢が問題。
人が高慢になれば、褒められることは不利益になる。

○毎田周一先生訳
830.
自惚こそは人の苦しみを生み出す土壌である
それなのに彼は愈々いい気になって思い上がったことをいう
これを見てもひとはいい争うことを止めねばならぬ
何故なら賢い人はそんな処に清らかさがあるとはいわないからである

一行目の三人の先生方の訳はニュアンスが異なる。
「自惚こそは人の苦しみを生み出す土壌である」
「心の高ぶりというものは、かれの害われる場所である。」
「その傲慢なるもの――それは、彼にとっては、悩み苦しみの境地。」
パーリ語の「高慢」を「自惚れ」「心の高まり」「傲慢」とそれぞれ訳されている。
そして「破滅の地」を「苦しみを生み出す土壌」「害われる場所」「悩み苦しみの境地」という言葉で表現された。
論争の勝利者の心の問題点、その時の心の状態の危険性は予想外に大きなものであることにも気づかされる。
「高慢」が「苦しみを生み出す土壌」「害われる場所」「悩み苦しみの境地」であることを知って、論争を止めるように述べている。
さらに四行目には論争に勝つことで「清浄」が得られないと賢者達が説いている。そもそも「清浄(真理)」を求めて論争するのだが、論争では「清浄」は得られないから、論争を止めよということ。

○毎田周一先生訳
831.
たとえば王侯から食禄を得ている勇ましい人が
敵の中に強い相手を求めながら 叫び声をあげて突き進むように
勇ましい人は 敵の居る処へとび込んでゆくがよい
そこにはしかし戦わねばならぬことは何もないのである

論争を好む者、論争を求める者を勇者にたとえて、皮肉を込めて述べている。
中村先生の訳、「王に養われてきた勇士」とは、自分の先生とか先輩の意見や業績に依存している論争者という意味。「相手の勇士」とは「論争の相手」。
「喚声を挙げて進んでゆくようなものである。」とは、論争の相手を探して論争を挑むがよいということだが、その時の論争の相手とは、中村先生がカッコの中で書かれているように、(汝にふさわしい、真理に達した人)。
次に「相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。」とある。これは真理に達した人は、これが真理だと主張する所がないので、あなたは戦うことが出来ないのだと述べている。
(´・(ェ)・`)つ
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173 :名無しを整える。[sage]:2017/12/07(木) 19:10:26.55 ID:Kx9Ri+sP
>>170
○毎田周一先生訳
832.
ある学説をとり上げて議論を吹きかけてきて
「これこそ本当なのだ」という人があれば
そういう人にあなたはいってやるがよい――
いい争うとしても あなたの相手はここにはいませんと

論争を挑む者はある見解(偏見)をもって、「これのみが真理である」と述べるものだから、「汝と対論する者はここにいない」と応えよと教えている。

○毎田周一先生訳
833.
これとは反対に もう敵というものをもたない処に生きて
色々な考えに一つの考えを対立させない人達がある
パスーラよ あなたはこういう人達から何か得られると思うのか
その人達にはもうこれが最上のことだといって掴んでいるものは何もないのである

毎田先生と正田先生の訳では誤解がないと思うが、中村先生の訳の場合は誤解する恐れがある。と言うのは、883の「かれら」は誰をさしているか明確でないから。
「かれら」を882の「(特殊な)偏見を固執して論争をする人々」とも取れなくはない。
その点、毎田先生と正田先生の訳では、「これとは反対に」あるいは「いっぽうで」という言葉があるから、「(特殊な)偏見を固執して論争をする人々」ではなく、「論争をやめた人々」を意味していることになる。
もちろん中村先生の訳も他の先生と同じにも理解できるが、誤解されるおそれがあるということ。
この偈でブッダはパスーラさんに「お前は論争をやめた人々の処に行って、何を求めようとしているのか? 彼等には「最上だと」固執するものは何もないのだよ。」と教えていることになる。

○毎田周一先生訳
834.
ところであなたは色々の学説を心の中で思いめぐらせながら
そこに真理を尋ね求めているようだが
そういうことでは いくら清められた人に出会って学んでいるといっても
それ以上に先に進むことはとてもあなたには出来ないだろう

833偈で「敵というものを持たない処に生きて、色々な考えに一つの考えを対立させない人達とは論争出来ない」という真理が述べられた。
そのことを理解していないパスーラさんは「自分こそは勝利を得るであろう」と思いをめぐらして、心中にもろもろの偏見を考えてブッダと論争しようとやって来た。
ブッダはまさに、「敵というものを持たない処に生きて、色々な考えに一つの考えを対立させない人」なのだから、パスーラさんはブッダと論争しようにも論争出来ない。
それで「パスーラよ。 汝もこの真理(ことわり)を識って、争論と偏見とを離れるべきである。」ということになる。
三人の先生の訳が微妙に違う。パーリ語の yuga(軛を)の訳し方が異なる。
毎田先生と中村先生は軛という言葉がない。正田先生だけが軛という言葉を使っています。軛(くびき)とは、車の轅(ながえ)の端につけて、牛馬の後頸にかける横木。この偈では軛は比喩として使っている。
毎田先生は、「清められた人に出会って学んでいる」という意味に使っている。中村先生と正田先生は「論争しようとすること」という意味に使っている。
注釈書には、山犬とライオンは同じ軛をつけては歩めないように、パスーラとブッダはともに同じ軛をつけて一歩もともに進むことが出来ないと説明されている。

(´・(ェ)・`)つ


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